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神を信じる心とは?

What Is Faith?

神を信じる心は、目には見えない次元からの、神からの贈り物です。神を信じる心は、人が生み出すものでも、行うものでもありません。私たちの意志や集中力、頭の中での信仰とも関係ありません。教会や教義、宗派や宗教の所属とも関係ありません。
神を信じる心は、人にやってくるもので、人からくるものではありません。それは自分の力とは別に起きていることであり、与えられるものであり、作用であり、祝福です。だれも信じる心を作り出したり、生み出したりすることはできません。そして、いったん信じる心が与えられると、その影響を増やしたり減らしたり、変えたりすることはできません。

神を信じる心は見えない世界とのつながりで、それは自分の中からではなく、自分の外から与えられるものです。自分で“見つける”ものや“入れる”ものではなく、“される”ものです。むしろ信じる心は、見えない次元によって、水に浸されるように、または包み込まれるようにやってくるものです。

信じる心は、神の存在に気づくことであり、神のしていることを知ることです。それは、神の国やスピリチュアルな世界を垣間見ることで、本物の信仰は、私たちを創造主の神とつなげます。

神を信じる心は、私たちの肉体や感情とは何の関係もありません。それは直感や本能、勘や第六感よりも上をいくものです。信じる心は、感覚や直感とは全く独立したものです。それはあなたが引き起こすことではなく、あなたに起こることです。

だれかが“神を信じる心”を経験し、それに基づいた行動を実践しているときには、前向きで肯定的な、自然にすべきことを受け入れているという反応があらわれます。神を信じる心に努力はいりません。神を信じる心とは、神に与えられたエネルギーによって与えられる、インスピレーションです。外からの力に内が反応するのみで、自分でコントロールできるものではありません。神を信じる心は、一時的であろうと、常なものであろうと、神の国が内面化したものなのです。

神を信じる心は、理屈や知的理解とは何の関係ありません。神からの気づきによって働きます。それはたとえば幼児が、理屈や知識ではわからないことでも、物事を感じとることと似ています。

神を信じる心は人がする何かではなく、人に起こることです。

人は、成長して世の経験をすればするほど、若いころにあった人への信頼や無垢さ、休息、自由さを失っていきます。歳を重ねるほど、理屈や見た目で判断する傾向があります。それは、“信じる心”とは相反するもので、世の知識は信仰心の敵です。なぜなら、知識は外からのものであり、人間の気持ちがその味方をしてしまうからです。信じる心は、私たちの気持ちや感情を超えて、独立して存在すべきものです。

神を信じる心のある人を見てみてください。その人がもつ知識や、身体的・物理的なものとは別に、目には見えない輝きを発しています。信じる心が与えられ、それに基づいて行動するのなら、その人は今よりもっと与えられます。もし人が、「今」という時と空間、そして内でなく外面に焦点を当てるなら、神を信じる心でのみ存在する目に見えない次元との接点を失います。

神を信じる心なくして、神を喜ばせることは不可能です。また、神が神の存在を知る人を通してあなたに何か働きかけをしていても、神を信じる心なくして、それを理解することは不可能です。神はわざと姿を隠して、さりげなくあなたに働きかけるので、神を信じる心がなければ、神を見ることもできないのです。神を信じることに応える心だけが、より大きな視野で、神のなす業の全体像を把握できるのです。

世の中では、たくさんの人々が、理論や教義、信念で、いわゆる“真実”について巧みに語り、それらによって感銘を受けることもあるでしょう。しかし、どんな言葉も、神に与えられた「信じる心」なしでは、口先から出た表面的なものでしかありません。論理的であったり、愉快でエンターテイメントであったり、知識が詰まっていたり、感動することさえもあるでしょうが、それでも、本物の信じる心や神からの知恵がない限り、心の奥底に与えられる確信は、神に与えられる確かさにはかなわないのです。

神を信じる心は、人を救うものでもあります。人は、パンだけでは生きられません。人は、天から与えられるものなしでは、生きられないのです。地球からの食べ物なくして、私たちは生きていけませんが、天と地球すべての創造主である神から与えられるもの、つまり、信仰のない人には、苦悩があるのみです。

神を信じる心とは、自分の欲望によって生きる人には理解のできないものです。“肉”的な目で価値判断をする人は、スピリチュアルな世界、つまり信仰自体を軽蔑しているのですから、神という目に見えない存在ならばなおさら、どれだけばかにするか計り知れません。
神を信じる心は、霊的ないのちへの、“へその緒”です。へその緒はそこにただ存在し、胎児が母親のおなかの中で、へその緒の場所を変えたり、コントロールできないのと同様に、主権は私たちにはないのです。胎児は、ただ与えられるがまま、栄養など必要なことすべてを扶養されます。信じる心も同様に、それはただ与えられるものであり、与えられたら、それがあなたに与えるものとなるのです。
胎児は自分からおっぱいを吸おうとしたり、ごはんを与えてくれとせがんだりしますか?いいえ、ただ受け取るのみです。信仰も同じことです。神が与えるのです。神を信じる心を与えられた者は、自分の考えではないことを信じ、受け取り、価値を見出し、神の与えたものを生かすのです。それは目に見える世界での価値とは、相反したものです。
神を信じる心は、目に見えることではなく目に見えないことに価値の重きを置くことです。目に見えることに価値の重きを置くことは死や地獄ですが、目に見えないことに重きを置くことは、生きることであり、平和であり、そして勝利です。

神を信じる心によって不可能なものはありません。この世の次元と自然の法則は、完全に天の国に従属しています。信じる心を完全に受け入れ、感謝し、神を信じる心を実践することによって、この世が、神の国に従います。それゆえ、神を信じる心は、神に喜ばれるのです。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人の手紙11章6節)」

神を信じるすべての人は、預言者であろうと使者であろうと、男であろうと女であろうと、大人であろうと幼い子供であろうと、信仰の息子です。最初の使者たちは、神を信じる心を、賞賛し切望しました。それによって、彼らは医学や心理学、悪霊の追放や説得なしで病を癒し、死からよみがえらせることができたのです。彼らは不可能なことを可能にしたのです。
神を信じる心によって、彼らはイエス・キリストに従い、仕えました(これは神を信じる心なしでは不可能です)。神を信じる心によって、ペテロは知られていなかった事実を知り、イエスが救世主、生きる神の子であることを明らかにしたのです。彼は理屈や教義によって、それを学んだり、告白したりしたわけではありません。彼は単に信じる心によって神からその理解が与えられたのです。
「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、“人々は、人の子のことを何者だと言っているか”とお尋ねになった。弟子たちは言った。“『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。”イエスが言われた。“それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。”シモン・ペトロが、“あなたはメシア、生ける神の子です”と答えた。すると、イエスはお答えになった。“シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。”(マタイの福音書16章13-17節)」

イエス・キリストの弟子たちは、もっとも貴重で心わくわくする、無敵で生命力にあふれる、超自然的かつ力強い、活気と輝きのある革命的な神からの贈り物、つまり信仰=信じる心が欲しいと望みました。彼らは自分たちの信仰の度合いの質や量を変えることは不可能だとは知っていましたが、それがどこからくるのかは知っていましたし、それを頼むことは試みました。
「使徒たちは主に言った。“私たちの信仰を増してください。”
しかし主は言われた。“もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。
ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。
かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。
しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。
あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。”(ルカ17章5-10節)」
つまり、神は彼らに、「信仰を“もっと”」と言う必要はない、必要なものはすでに、すべて(十分に)手が届くようになっていると言ったのです。また神は彼らに、神を信じる心とは、神の正しさや神の力、神の恵みにのみ気づき、頼って歩んでいくことだと言いました。たとえ彼らが彼らの信仰を実りの多いものとしたとしても、それらの功はすべて神にあるのであって、自分の力で達成したものではないのですから。
「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」 
神を信じる心をもって歩む人は、神の意志を果たしているのです。
神を信じる心は、自分へのうぬぼれや独立心をなくすことです。それは神に信頼をおくこと、そして神からくる信頼です。これが神を信じる心です。神のみが起こすことができます。神を信じる心は、ひとえに神からの贈り物です。

Victor Hafichuk

ビクター・ハフィチャック

翻訳 Mariko Benson
Translated into Japanese by Mariko Benson

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