English – French – Japanese – Spanish – Chinese
私は、ウクライナのカトリックの家に、長男として生まれました。私が初めて、神様の存在や“もうひとつの世界”に気づいた頃の記憶をひもといてみます。ある夕方、日が落ちる頃、両親と一緒に私は、町から車で帰るところでした。私は4歳ぐらいだったと思います。太陽は、地平線や雲の上に燃えるような鮮やかな色の光を投げかけました。そしてその光は、天の住居へ伸びているかのような特殊効果を与えました。母はその美しい様を指差して(ウクライナ語で)言いました。「見てごらん、向こうにある、あれが天国よ。神様、天使、そして聖者たちが皆歌い、喜びにあふれているでしょう!」その出来事に、私はとても感動しました。私は天国に行きたいと確信していましたし、母が「(肉体的に)死ななければ天国に行けない」と私に言ったのか、本能的にそう知っていたのかどうかは覚えていませんが、この世のすべてを失ってすべてを手放さなければ、神とともにいられるという計り知れないほどの大きな恩恵は与えられないものなのだとわかっていました。その経験と気づきは、甘くて苦く刺激的で、でも深くさびしいものでした。そのときにはまだ気がついていなかったことですが、肉体が生きているうちに、神とともにいられる「恩恵」や、それに伴う「対価」の両方を経験することになるとは、思ってもいませんでした。
私が思い出す神との次の“出会い”は、私が11か12歳の時のことです。次から次へと、悪いことばかりが起きていました。私はもう、どうしていいかわからないというような状態の頃でした。ある日、私が木の下で薪を割っていると、斧を振り下ろしたときに一本の枝を引っ掛け、頭の上に落ちてきて、私は衝撃を受けました。それはまるで、天国が私の上に落ちてきたかのようでした。私は、死に物狂いで神に向かって泣き叫び、恐れ、打ちひしがれました。それ以来、私の中には平和が訪れ、しばらくの間、そのような事故はそれ以上起きなくなりました。
私が25歳になろうとしたころ、私はスキー事故に遭いました。3ヵ月半仕事を離れ、長い間、理学療法を受けました。その間、もっとあるはずの人生の意味について私の中で模索が始まりました。そして、次々と疑問が湧きあがってきたのです。「私は誰だ?どうしてここにいるのだろう?神は存在するのだろうか?神は私に話しかけてくれるのだろうか?神は私から何を望んでいるのだろう?」私は、さまざまな人生観を探し始めました。哲学、宗教、・・・。そして聖書を読み始めたのです。
少し変わった事情があり、私は家から何百マイルも離れた別の町の会社で雇われることになりました。私は家族や、友人、気の知れた人々から離れることになりました。閑散とした仕事だったので、考えたり、こころを沈めたり、聖書を読み、神様を探す時間を十分与えられました。
1972年のその頃、私は祈ることを始め、神に泣き叫びました。「神様、もしそこにいるのでしたら、もし私があなたに話すことができるのでしたら、そして、もしあなたがその存在を見せてくださるというのでしたら、お願いですから、そうしてください」。夜な夜な、私はベッドのそばにひざまずき、静かな絶望の中、必死に神に叫びました。神が答えてくれない限り、このまま生き続ける意味がないというほど、その空虚感と、世の中に向ける不満足な気持ちは、より激しくなりました。
1972年のその年のこと、私は三日三晩、食べ物も水も一切摂取しない断食をすることを決めました。その頃、私は「キリスト再来」として知っていた主イエス・キリストの夢を見ました。私は神の顔を見たのです。それは何にも似つかない、美しさにおいて完璧な、愛において完璧な、力や、知恵や、知識や、平和において完璧な顔でした。彼の顔ははっきりと、疑いもないほどユダヤ人の顔でしたが、同時に普遍性をもつ顔をしていました。ひとりの男が彼の左側に歩いており、その男の顔も、明らかにユダヤ人でしたが、しかしその同じような普遍性は持ち合わせていませんでした。その男の顔は、敬愛に満ちており、感謝と喜びでいっぱいで、それはすべて彼が共に歩み、彼が崇拝している人によるものでした。主イエスとその男は両方とも、こぎれいなひげを生やしており、髪は短く、高貴で聖職者にふさわしい装いでした。
私が夢の中でその二人を見たとき、私は自分に罪があるのだとわかりました。神様やその隣にいた男によって有罪とされたのではなく、私自身の堕落と宗教的な教えによっての、有罪でした。カトリック教徒として育ったので、魂的に“大罪”を悔い改める前に死んだならば、地獄に落ちて、恐ろしい苦痛で永遠に燃やされると教えられてきました。または、もし神が再来したときに、私が“大罪”の中にいるとしたら、同じように苦しみ続けるであろうと教えられていました。夢の中で神は、世界中の人々が立ち並ぶ側らを歩いていました。人々は、じっと動かずにそれを見ていて、ことの運びに興味を寄せていました。その中でほんの一握りの人々だけが、神様に認められました。私は神に認識されることなく通り過ぎられ、私は神が私を認めることができないのだともわかっていました。私は神に拒絶され、永遠に罰せられることを恐れました。目を覚ましたとき、服は汗でびっしょり濡れていました。
かなりの苦しみの中で、どうしてよいかわからないまま1、2週間が経ち、2度目の神からの夢を見ました。私にはスピリチュアルな食べ物が必要だということを知らせる夢でした。私は、自分の人生を変えようとし始め、私の犯している罪を自分自身の中から取り除き、主を喜ばせ、主を受け入れられるような自分になろうとしました。しかしすぐに、私の側でそのような企てをすることは不可能だと悟りました。私は絶望し、もうほとんど挑戦することもすべてやめようとしたとき、3番目の夢をみて、それは継続を励ますものでした。その夢は象徴的で、私は「そこへ」、もう少しで辿りつけるのだとその夢は言っていました。
過ぎ越しの祭り THE FEAST OF PASSOVER
しばらくの後、主は私に、ジョージ・リンという年配のひとりの男を遣わせました。神について話させるため、主が彼を私に送ったのです。彼は聖書にかなり精通していて、旧約と新約の両方を教えました。彼は私がカトリック教徒だと知ったため、ローマ・カトリック教会がどんなに退廃しているかを、何日間かかけて私に伝えようとしました。彼はカトリック教会にはびこる、いくつかの甚だしく淫らな罪について述べました。しかし結果的に、彼は私の怒りを買っただけでした。私は、「彼はせっかく神によって英知を与えられているのだから、私の行く教会を批判したりせずに、聖書を掘り下げる方に舵をとればいいのに」と思いました。彼はまた、神や神の愛、そして神の私への犠牲について語り、どのようにして私の命の主としてのイエス・キリストを受け入れ、服従することが必要かを話しました。彼は、私が自分自身を救うためにできることは何もなく、全能で唯一の救世主である神にすべて任せることが必要だということだけは、はっきりと言いました。彼は、何百もの聖書の節を、毎日何時間もかけて私と分かち合いました。特に思い出すのは、使徒パウロによる書簡の中の多くです。たとえば、
「あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8-9)。日本聖書刊行会発行新改訳聖書より
そして、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)。日本聖書刊行会発行新改訳聖書より
さらに、「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)。日本聖書刊行会発行新改訳聖書より
聖書の真実性と権威を信じることを勇気づけようと、ジョージは、パウロがテモテに書いた次のような言葉を(ほかの節とともに)私と分かち合いました。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい、十分に整えられた者となるためです」(テモテⅡ3:16-17)。日本聖書刊行会発行新改訳聖書より
多くの節がそうだったのですが、特に私の中で際立っていて、決め手となったのが、
「では、どう言っていますか。<みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。>これは、私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口で主イエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。聖書はこう言っています。<彼に信頼する者は、失望させられることがない>」(ローマ10:8-11)。日本聖書刊行会発行新改訳聖書より
七晩が経ち、毎晩何時間かの教授の後、私はイエス・キリストこそが、私にとって、また、すべての人々にとっての「たったひとつの答え」であることを信じ始めました。私は神様の前にあって自分が正しくないことを知っていましたし、神様に向かって自分で自分を正しく変えることは不可能で、それでもなお、神様に正しくありたいと強く願い、そして今、目の前にいるジョージが、まさにどのようにそれができて、唯一の道が何かを私に語りかけてくれているのです。私は多少、気恥ずかしく思いながらも祈ろうとひざまずき、ジョージも私と一緒にひざまずいてくれました。いざ祈ろうとすると、私はどうやって祈っていいのかわからない自分に驚きました。何を祈ればいいのでしょう。ジョージは、ただ純粋に、正直に、尊敬している誰かに話すように、でも形式ばらないで神様に話しかけるようアドバイスしてくれました。私は、自分がどうしようもない罪びとであることを懺悔しました。そして主イエス・キリストに私の罪に対する許しを請い、私自身ではどうすることもできない私の人生を、そっくりそのまま引き受けて下さるようにお願いしました(神様は私が自分自身を変えようと努力をしたことや、私がみじめにもそれに失敗したことをすっかりご存知でした)。懺悔によって何かが聞こえたり見えたりしたとは感じなかったので少しがっかりしましたが、それでも平和を感じ、帰路に着きました。
その後何日かの間、私の中ではいろいろな変化が起きてきましたが、それは決して自分の力によるものでも、自分の権限によるものでもありませんでした。私が変えようともがいていた不道徳と悪癖はいつのまにか消えていました。私の中には、私がかつて知ることのなかった喜び、平和、充足、指南、そして決意という、新しい欲求が生まれました。生まれてはじめて、本当の「命」を得たのです。聖書は、私にとって全く新しい本となりました。私はかつて聖書を読み流したことはありましたが、今回の人生の大転機が起こる前には、聖書について何ひとつ理解していなかったのだということがわかりました。そうなると私は聖書の中味に興味津々となり、もっと知りたいという情熱にあふれました。この本は生きており、計り知れないほど無限の意味が含まれているのです。神様は本物だったのです!
さて、ここで包み隠さず私に話させてください。そうしたらあなたにも、私の人生でそのときどんな変化が起きたのかを正しく理解していただけるかと思います。カトリック教徒として、私はミサの侍者であり、若者グループのリーダーであり、聖歌隊のソリストでした。私は教義問答に行ったり、堅信(キリスト教で受洗後、聖霊の賜物によって信仰を強める秘跡)に行ったり、懺悔に行ったり、聖餐式に行ったり、さらには伝道師養成学校(神学校)にさえ一年間参加しました。できることはすべてやりました。それと同時に、私は大バカ者で、嘘つきで、盗人で、卑怯者で、詐欺師で、性的変質者で、臆病者で、反逆者で、偽善者で、姦淫者で、姦夫であり、マスターベーションをし、神を冒涜するものであり、偶像崇拝者であり、飲んだくれで、暴飲暴食家で、喫煙者で、そしてまだまだもっと多くの罪を犯していました。私は絶えず懺悔に行っては罪を犯すということを繰り返していました。罪を犯しても懺悔に行けばいいという考え方では決してありませんでしたが、自分を変えようと、罪を感じつつも、無力感と失望感、そして恐れとともに、それを繰り返していました。表面的には笑顔でジョークを飛ばしていても、中身は病んでいました。たとえば、思春期以来、私は自慰をしてきて、私が本気でやめようとしたときには、その奴隷のようになっており、やめることができなくなっていました。その害が大きかったことが今なら見えますが、私にそれを教えた人々はイエス・キリストや救世主について一度も知ることがなく、それが彼らにどのような害を及ぼしたのかと思いをめぐらします。
ここまで私は、自分がどのような罪を犯してきたのかを告白してきました。ほかにもまだ書きたくても書けない罪があるのですが、あまりにも卑劣な罪の懺悔によって、それを聞いた人の心が汚されるという影響があり、それを他人に漏らすこと自体がさらに別の罪を犯すことになるので、すべてを書くことができません。ただ私が皆さんにお伝えしたことは、あなたの罪がどんなにか恥ずべきものであっても、希望はあり得るということです。私は、私たちひとりひとり、皆誰もが「最悪」の罪を犯す可能性があるということを学びました。そして、私に希望と救いが訪れたように、皆さんにも訪れます。つまりは、イエスがすべての人々の罪のために死んだのです。
主が私を私の罪から救い出し、私の人生を引き取り、私の人生がひっくり返った、というよりは、それまでひっくり返っていた人生の正しい面が出てきて、私と家族との間に、また私と友人や仲間との間にも溝がでてきました。私が行っていたカトリック教区の司祭と教徒たちみんなは、私に起きたことについて批判しました。家族との関係は冷たくなる一方でした。私の妹は、私を彼女の家から追い出し、みんなが私を避けるようになりました。私は上に書いたような罪を犯してきて、そのうちのいくつかは私の家族やカトリック教会のみんなにも知られていましたが、私がカトリック教徒である限り、罪があっても誰も私に対して問題をもつものはありませんでした。私は彼らの仲間の一員だったのです。しかし私が、“イエス・キリストが神である”ことをはっきりと認め、自分の恥ずべき下劣な罪や、悪行、悪癖から救われたことについて告白した途端、“聖書学生”の中のだまされた阿呆者として非難され、私は皆から遠ざけられることになったのです。たとえば私の妹が私を追い出したときもそうでしたが、私がただ愛する人たちに「本当の人生を見つけた」と告げたばかりに、このようなことになったのです。私は自分が見つけたことを彼らと分かち合いたいと強く願いました。だからこそ、彼らが私の救いに対して問題視するということに、非常に驚いたのです。私の妹ははっきりと、こう言いました。「ビクター、私、新しいあなたが好きではありません」。私は、もっていたものすべてを失いましたが、私をそっくりそのまま引き受けた神の中での充足感のためならば喜んで失いますし、後悔はありません。
私がカトリック教徒である限り、私の罪は問題にはされませんでしたが、私の罪がカトリック教の影響の外で主イエス・キリストの名の下に清められた途端、私は突如として彼らに煙たがられる存在となりました。私の中にこれだけのいい変化があったのに、どうして彼らは神に感謝できなかったのだろう。
罪の悔い改めとそこからの救いという2、3ヵ月間の経験の後、私はJohn O’Brien(ジョン・オブライアン)著の『The Faith of Millions(数百万人の信仰)』というタイトルの本(だと思う)を読んでいました。その本はカトリック教会を弁明したもので、その教義を説いたものでした。私はその本に感動し、やはりローマ・カトリック教会が唯一本物の教会であり、その教義が本当かつ正当であるのだということを、知的レベルで納得させられました。私は自分が出席していたアライアンス教会の人々に、自分がカトリック教会に戻る必要があると話し始めました。彼らはそのことで、私のことをかなり心配していました。
私が「私の教会(つまりカトリック教会)へ戻ります!」と発表しようとしたアライアンス教会での最後の日曜日のこと。私は急に具合が悪くなり、地下の借家のベットの中で熱にうなされて、緑色の胆を吐いていました。そこに私の家主と妻が、珍しく家にいた私を見つけました。彼らは、私のかかりつけの若い医者の自宅に連絡し、深夜、病院で私を診察させました。そのかかりつけの医者ローネ・ラブーカ(Lorne Rabuka)は、私のどこが悪いのかわからなかったのですが、ちょうどそこに通りかかった年配の医者がベッドに横たわっている私を見ました。彼はやってきて、下腹部を押し、私は天井に届きそうなぐらい飛び上がりました。年配の医者は若い医者に言いました。「この患者は、かなり深刻な虫垂炎だろう。すぐに手術室に連れて行きなさい」。これは、もう真夜中になる頃でした。朝の2時まで、彼らは手術を続けました。後に私は、もし手術が何時間か遅れていたら、または何分か発見が遅れていただけで、虫垂炎が張り裂けて死に到っていただろうと告げられました。
そうして私は仕事を休み、入院することになりました。その後自宅でも何日か療養し、快方に向かいました。アライアンス教会の牧師には病院に来てもらうことはしませんでしたが、代わりにカトリックの牧師が来ていました。それによって私のアライアンスの友達らは、いい気持ちはしませんでしたが、彼らは特に反対したり非難したりはしませんでした。彼らがしたことといったら、祈ることのみでした(そのときの私はそれを知りませんでしたが)。私は、カトリックの牧師に向け、多くの質問をしましたが、彼の聖書に関する知識は限られていて、聖書に対する意見にも信用性がなく、一方彼はとても好意的で慎み深く、説得力さえも感じざるを得ないところがありました。
ジョージ・リンは、その週にちょうど、たまたま町に戻ってきました。彼は私のところに来て、何時間か話し、カトリックの教えについて議論しました。彼は、私が「百万人の信仰(The Faith of Millions)」から習ったカトリックの教義に対する理詰めの冷静な議論に対しずっと腹を立てていて、反論できずに途方に暮れていました。この時、私の方は腹を立てていたわけではなく、むしろ議論の終わりの方になって「二人で一緒に祈れないか」とたずねました。彼は承諾し、後に、彼の方こそ二人で祈ることを提案すべきだったと、告白しました。彼は、私がカトリック教会の本物さと権威に完全に説得され、そこに戻ることを喜んで決めたことを知って、意気消沈して去りました。
しかし、まだすべてが終わったわけではありませんでした。虫垂炎にかかるまでの間、私は聖書の章いくつかを毎日読み、旧約、新約の両方を読み通したのですが、その頃には、使徒パウロの書簡の「ローマ書」までを始めたところでした。その週、珍しく邪魔のない時間があり、私は使徒パウロのすべてを一息で読んでしまいました。「ヘブル人への手紙」のところにきたときには、私は茫然としていました。神様は私の目を開いてくださいました。神は、私の心に届いていました。神は、使徒パウロが述べ伝えていた真実を、私にあばいて明らかにしました。理詰めの議論によって説得されていた私ですが、私は使徒パウロが伝道していた内容が、カトリック教の言う教義や実際と全く逆であるということに気がつきました。その差は、あまりにも極端なものでした。それはまるで、聖書の中のページや私の心の中に、眩しい聖なる光が射しているかのようでした。本当に、本当に、おおげさにすることなしに、カトリック教会が教え、行っていることと、使徒パウロの書簡が言っていることが、黒と白ほど違うと言えました。カトリック教会と聖書は、それぞれ言っている内容も意図も、全く対立していると確信しました。神様は、私の間違った信念と苦悩に対し、ずっと慈悲深かったのです。約2000年前に使徒パウロが命を捨てたのも、少なくとも私にとっては無駄ではありませんでした。私は使徒パウロの神への教えによって、カトリック教の間違った教えや宗教の力から救われたのです。聖書では、次のように書かれています。
「わたしの口は人の習いに従うことなく、あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて」(詩篇 17:4)(財)日本聖書協会、新共同訳聖書より
“死”と隣り合わせになったすぐ後に、すばらしい救いと感激の両方を体験したのは、神や聖書に関する知識があったからだと思い、私は聖書学校へ行くことを決めました。もし聖書が私の人生に対してこれだけの違いをもたせることができるのだとしたら、私は聖書についてできるだけ多くのことを知りたいと思うようになりました。私はついに、「クリスチャン・トレーニング・センター」と呼ばれる、カナダ・サスカチュワン州のサスカチューンにある、まだ始まったばかりの新しい南バプティスト聖書学校に行くことを決めました。それは、ヘンリー・ブラッカバイ(Henry Blackaby)と仲間の牧師によって運営されていました。
私には、聖書学校に行く理由がほかにもありました。この新しい人生を、聖書の助けを借りて、ほかの人々とともに分かち合いたかったのです。聖書学校はそれを達成することができるために行くところだと思っていたのですが、それは思い違いでした。そして、私を聖書学校へと駆り立てた3つ目の理由は、私は依然としてまだ「そこ」にたどりついていないよ、と諭すような小さな声がいつも聞こえていたからです。私は自分自身に起きたすばらしい変化を否定することができないながらも、それでもなお、私は神の意思に届ききっていないような気がしていました。私が牧師や福音伝道者らに悩みを打ち明けると、いつも決まって「悪魔があなたの救いを疑うように惑わしているのだ」と言われるのですが、私にはどうしてもその声を振り払うことはできませんでした。
無念にも、私はこの聖書学校に来てみて初めて気がついたことがありました。それは、聖書学校では、教会の歴史や説教法(伝道の技術)、日曜学校や教会の運営、聖歌隊の指導、福音の伝道、宗派の歴史、ギリシャ語などを学んでも、聖書についてはほんの少ししか学ぶ機会がないということでした。それでも、そんな状況の中、神様は私に対して働きかけをしていました。私は教会でのある問題について、彼らが教えていることと聖書との間の矛盾を見つけ、対立することがありました。
ほかにも、私にはもうひとつ痛いほどのジレンマがあったことを思い出します。私が、おそらく、あっても2000冊ほどの本しかない小さい図書館に歩いていくと、その中で、ある一冊の本を見つけました。「ストロング(有名な聖書研究家)の神学体系」という大きくて分厚い本で、小さい字でたくさんの教義や説教が詰まっていました。私は思いました。「こんなこと、この本一冊だけでも読み通せなさそうなのに、一体どうしたら世の中にある宗教学をすべて読みきることができるんだろう。まるでぬかるみの中を歩いているようだ。すべて読みあさって、どれが正しくてどれが本当なのか、結論を探し出す必要はないのだろうか。カルビンが正しい、それともルーサーが正しい?彼らのうち、正しい人はいるのだろうか。もしそうだったら、誰が正しくて、誰が正しくないのだろう。私はどこに向かっていけばいいのか。誰のことを心から信用することができるのか」。これらの考えは、実に私を当惑させました。牧師は私を助けることができず、ほかの誰もあまり気にしていないようでした。彼らは皆、真実を知っているということへの自信もあるようで、そこにたどりつくための進路や学校の授業内容にも満足しているようでした。
そんなジレンマのすぐ後、例えばほかのみんなに対して批判的なような、かすかな罪の自覚があり、何ヶ月か魂の探求の時期に入りました。その間、私は以前の改心のときのような魂の訓練と同じような厳しさを、別のレベルで経験していました。
五旬祭(ペンテコステ、聖霊降臨祭) THE FEAST OF PENTECOST
私はその聖書学校で未来の妻に会い、それは私の改心の21ヵ月後のことでした。私は27歳で結婚しました。一ヶ月の後、1975年の1月1日のこと。夜の9時半頃、妻と私は聖霊を受けることを祈り、それを受け取りました。聖霊を受けることについて、私たちの福音派教会はそれを悪魔のものとして非難していたことは知っていましたが、私たちはそれが次のレベルだということを聖書を読んで信じるようになっていたので、それを承知の上で聖霊を受けました。朝の7時まで、私たちは寝つくことができませんでした。それは、新しい世界でした。聖書は私が今まで決して知ることのなかったものとして、さらに生き返りました。一晩中、主は私たちを聖書の中の至るところへ連れて行き、私たちに多くのことを啓示しました。神は、私たちがこれまで経験することのなかった形で、神自身を現しました。それは大きな興奮でした。
私たちはその経験を話さずにはいられませんでした。しかし、聖書学校や教会でその経験が受け入れられることは全くありませんでした。バプティスト派の牧師は、もしそれが教会の意図や理解に反することだったら、私たちが信じていることに細心の注意を払うようにと言いつけました。私はすぐに、「あなたはカトリック教会と何ら変わらない。彼らも私が改心したときに、全く同じことを言った!」と、悟りとともに答えました。主は私に、この牧師個人が彼の主張に反し救われていないということをはっきりと示しました。その牧師は、私たちに3つの選択肢を与えました。ひとつ目の選択肢は、“気持ちを入れ替える”こと、2つ目は、私たちの信じていることはそのままでいいから心の中にしまっておくこと、または3つ目に、ここから出て行くという選択肢でした。私は、神様が私にしてくれたことを決して否定できないとわかっていたし、私の中にそれをそっとしまっておくこともできないとわかっていました。だから私たちに残された唯一の道、それは、ここから出て行くことだけでした。
聖霊を受けた中で、私たちは、すぐにではありませんが、その時が来るとともに、語る力、異言を解釈する力、預言する力、奇跡を行う力、癒しの力、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、幻、夢、そして、霊を見分ける力という神様からの贈り物が与えられました。
「ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。」(コリント人への手紙Ⅰ 12:10)(財)日本聖書協会、新共同訳聖書より
私は何かに気がつき始めました。カトリック時代に私は、カトリックだけが本物の教会であり、その教義や信念はただひとつの正しい教えだと教わりました。しかし、イエス・キリストが聖書への理解を私に与え、ジョージというカトリック教徒ではない人を通して私の人生をがらりと変えました。私は神によって生まれ変わり、神が私の人生を引き取りました。それは間違いなく、よりよいものへの変化でした。その変化によって私は、カトリック教が正しくないのだと確信しました。(訳注:カトリック教では生まれ変わって、神様が人生を引き取るということを信じていない。それが福音主義との根本的な違い)。そして次のレベルで、聖霊によって洗礼を受けたときには、以前のカトリックのときと同様のパターンで、福音主義の人たちが「生まれ変わったら、それだけで十分。聖霊の洗礼なんてあり得ない」と言っても、それはまたもや間違っていました。私が聖霊の洗礼を受けたことで、「神との魂レベルには、まださらにその上がある」ということを経験したのです。そして今度、私は主との歩みの中でまだ3つ目のレベルがあるということを人から聞いていました。私はもし今、それをまさに得られることができるのならば、もう誰にも邪魔させないで前に進みたいという思いがありました。私は、“安息に入る”こと、または完全にされ、清められて神聖化されることに向かい始めました。それはその後、さらに何年間かかかることになりました。
その後の数ヶ月間、主は私たちをあらゆる形式的な組織的宗教団体や教会や宗派にさらしたりして、彼らの真の姿を露呈させては、そこから引き離しました。「個人的な傷つきや恨み感情からの反動ではないのか」と、間違って憶測する人がいたのがなぜだかは理解できますが、そういったことでは決してありませんでした。私はすべての本を捨てるか燃やすかして、2、3年の間、毎日何時間かを聖書の読書に費やしました。間もなく神が私に教えたのは、私が今まで福音主義者を含むすべての教会で学んできた彼らの行う教義や慣習と、聖書の中で教えられていることは、多くの決定的な点で異なっているということでした(私は“決定的”という言葉を安易には使っていません)。それは苦闘であり、不信仰との戦いでした。疑いが私を襲いました。人々は私を批判し、私たちは長い間とても孤独でした。それはつらくはありましたが、よいことでした。その間ずっと、神様は私たちに必要なことすべてを、あらゆる方法で与えてくださいました。
1976年3月、聖霊を受けてから一年と少し経った頃、古く人気のない丸太小屋の廃屋で、主は私に言いました「私は傷ついている!傷ついている!」。神の痛みの冷気が、私を伝わって感じられました。神は私に(小屋の中にあるものを象徴としてたとえながら)、神の人々が虚偽を信じ、偽の宗教を信じ、異教の習慣を守り、暗闇と無知の中にいるために精神的に腐敗しているということを告げました。神は私に、うわべだけで名目だけのすべての宗教から抜け出し、人が自分の糞なんかを顧みないのと同様にすべてを後ろに残して、神の人々とそのほかすべての人々が、腐敗しているところから抜け出すよう告げました。神が私たちを引き上げたのです。
8年後の1984年、神は、以前神が私に告げたことに関して質問する心を私に与えました。私は尋ねました。「主よ、あなたはなぜ傷ついているのですか」。神は答えました。「それは、私の人々が苦しんでいるからだ」。私は尋ねました。「人々はなぜ苦しんでいるのですか」。神は答えました。「それは、彼らが私に従わないからだ」。私は尋ねました。「彼らはなぜ神に従わないのですか」。神は言いました。「それは、彼らが自分勝手な道を選んだからだ」。私はききました。「彼らはなぜ自分勝手な道を選んだのですか」。神は答えました。「それは、彼らの知識が欠けているからだ」。「なぜ彼らの知識は欠けているのですか」と私はききました。神は答えました。「それは、誰一人として、その知識を得られるかもしれないという彼らの人生を、喜んで失おうという人がいないからだ」。
私はしばらく沈黙していました。何年か前、私は、多くの人々が友としての主を探しているという認識がありました。何かを神に頼んだり、必要なときに神に祈ったりするということでです。しかし反対に、神の友としての自分はどうでしょう。神は友である人々に対して、望むことはないのでしょうか。アブラハムは神の友として知られています。私もそうなりたかった。私は神にたずねました。「神よ、人が神の知識を得るために、自分の命を捨てる心がなかったら、その人は神の友といえますか」。神からの返事はありませんでした。しかし、私にとってその質問はとても修辞疑問的なもので、答えはわかっていました。
質問と答えが交錯する時間のほんの数分前、私に大きな平和が訪れました。霊感によって私は言いました。「主よ、私が欲しい人生はこれです。ひとつは、行くのも来るのも全くしばられることのない(物理的に)自由な人生。そして、あなたはあなたの目的で私を使い、私の必要なものや心配な事はすべてあなたが面倒をみる。そして、あなたの懸念や関心事については、私に伝えてほしい」。私がそう言った瞬間、神は言いました。「はい、あなたにそれを与えました」。
仮庵祭 THE FEAST OF TABERNACLES
それから16年の後、あるつらい事情があり、そこで自分を神に捧げて従うことが試され、そのとき天使が私のところにきて私を力づけました。それは最後の、死に通じる戦いでした。人は、自分の身上に死の判決が下されたときにのみ、主に本当に従うことができます。つまり、自分のために生きている限り、神様に仕えるものにはなれないのです。それこそが、勝利、そして、休息なのです。17年間目、神と私の間の契約は、より“完全”に近くなり始めました。
その間何年もの間、主はずっと教師であり、聖書は教科書でした。世界が教室で、神は多くの人々を私たちの人生にもたらしました。それは神が私たちに取り組むため、教えるため、そして神の中で休息するところへ私たちを連れて行くためでした。これまでの人生は、水であり、火であり、血であり、涙であり、懲らしめであり、実に!苦しみであり、悲痛であり、苦悩であり、挫折と教訓でした。神は私たちの罪を許すだけではなく、私たちの罪深い性質を取り除こうとしてくださっているのです。私たちの罪とは、宗教、独善、頑固、不信心、自尊心、無知、横柄さ、自己中心的であることです。神様とは、なんと慈悲深く、なんと信頼のおける方なのでしょう!もちろん、神こそが愛であり、神だけが正しいのです。神はまた、すべてを統治しています。これだけは確かです。細かなところまで含め、私たちの置かれている境遇すべてが神の完全なコントロール下にあるということを神が私に示したことは何度もあります。ああ、神様、イエス・キリストよ、ありがとうございます。彼こそがすべての主です。
私は今、あなたに宣言します。主は、真実を話させるため、人々の中から私を選びました。主は、“教えられ、聞くべきだ”と決められた人に対し、彼らがそれを受け入れようと受け入れまいと、それが彼らの救いになろうと破壊(救いになるための破壊)になろうとも、真実を話し、教えさせるために私を選んだのです。イエス・キリストは、神を本当に信じる人たちを通し、肉体によってすでに再来しているということをはっきりと告白します。今は神の日で、私は今、ここに生きている神とともに歩いています。それは、正しい者にはよき日であり、不道徳な人間には悪い日です。皆が、神を恐れ悔い改めるべきです。神は、すべてのことを神自身へ帰らせるために来たのです。
主イエス・キリスト、ヤシュア・ハマシィアック・アドナイ(Yashuah HaMashiach Adonai:イエス・キリストのヘブライ語での本来の呼び名)の名を祝福させ賜え。その絶対的な唯一の神であり、すべてを自分のために創造したキリストの名を讃えよ!神は神とともに歩くひとりを得、私は私とともに歩むひとりを得ました。私が得たひとりとは、ポール・ベンジャミン・コーヘン(Paul Benjamin Cohen)で、彼は肉体、スピリットともにユダヤ人です。私が1979年、彼を救い真実を話すため神の言葉によって送られたイスラエルのキブツ(Kibbutz Revivim, HaNegev)で出会いました。私たち二人は天国と地球、両方の主である神の前でともに歩み、神が私たちを送るすべての人のために、神が与えてくれることを語っています。
私たちを敵視しない人々に祝福を。
https://www.thepathoftruth.com/testimonies/victor.htm#2017update
ビクター・ニコラス・ハフィチャック Victor Nicholas Hafichuk
カナダ アルバータ州 レスブリッジ Lethbridge, Alberta, Canada
関連項目
私たちについて
- ビクター・ハフィチャックの証言Victor Hafichuk’s Testimony:どのように信じるようになったか
>>そのほかの人の証言については「私たちについて(英語)」セクション
Related posts:
Người dại dột là ai? Tại sao nhiều người có thể dễ dàng nhìn thấy sự điên r�" của người khác, còn mình thì không? Chúng ta thấy nhan nhản ở khắp mọi nơi những “vị hoàng đế không áo mão” như thế này, tuy nhiên ai có thể đứng ra để nói với bất kỳ người nào về một vấn đề gì đó không? Nếu mọi người đều có sự hiểu biết và không cần đến lời khuyên bảo của ai, vậy thì tại sao mọi sự lại không trở nên tốt đẹp hơn? Ngợi khen Chúa, chúng ta đã có giải pháp cho bài toán khó này.
當有些人聽到我們傳講耶穌基督會使所有人與祂自己和好了,他們就會被冒犯並大聲說:“如果所有罪人都將被得救,那麼耶穌基督為我們而死在十字架上有甚麼意義呢?” 如果這是你的想法,你需要閱讀我們的回答....對這個最愚蠢的問題。
雖然這個世界不僅“接壤”,但似乎已經欣然接受了瘋狂,我必須提高防護牆,防止大量瘋狂的洪流,這是真理之道對虛假牆壁所豎立的理性之牆。