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私は日本に生まれ育ち、ごく平凡で幸せな人生を送っていた一女性です。家庭環境、友人関係、仕事、すべてに恵まれて育ってきました。しかし、心の奥底のとても深いところで、「人生ってこんなものなのかな」という疑問が常にありました。自分なりに、キャリア不足のせいか、結婚していないせいかなど、世間でよく言われる様々な理由を考えてはみましたが、何もぴったりくる答えはありませんでした。今あるもので幸せなのに、「何かが足りない!」。それはまるで、穴の空いた樽に水を注ぎ続けているような状態でした。日々のことに充実していれば、その樽は一時的に半分ほどは満たされているように感じるのですが、結局はまたもとの状態に戻ってしまうのでした。私は自分の人生に関して迷いがあり、人から見ると高望みだと言われていましたが、私の中には、「もっと何かあるはずだ」という確かな期待や渇望感がありました。神様と出会うまでは。…
真実との出会い
私の神との出会いは、マーク・ベンソンというカナダ人との出会いから始まりました。1997年の夏、私の勤める自然保護団体の国際会議で、彼は通訳のアルバイトでした。会議のための移動中、彼は、「人生とは何か」「真実とは何か」や「神の存在」について話しました。それは私にとって新鮮、かつ衝撃的で、彼の話すことにはなぜか説得力があると感じました。それまでも、学生の頃に太宰治の小説を読んで「人間とはどんな存在なのだろう」と考えたり、就職の際には誰もがぶつかる壁「自分は一体何をしたいのだろう、何のために生きているのだろう」という疑問を持って哲学の本を読んでみたりしたことはありましたが、なにを読んでみても、確実な答えというのは見つからなくて、そもそも答えなどないのだろうとあきらめていました。しかし、マークとの出会いで、人生や真実に対する明確な答えというものが、どうやら存在しそうだと思えてきました。
会議後も友人となったマークが翌年、東京ビッグサイトの自然食品・材料展で通訳をすることになりました。宿泊先を探していたマークに対し、私の両親はなんと、彼が泊まることを了承してくれました。それまで、多忙な両親の家に滞在を認められた私の友人はほとんどなく、マークのケースは異例中の異例。今思うと、これもみんな神様が与えてくれた機会だったとしか言いようがありません。
マークは通勤を共にする間毎日、東京の満員電車の中で、また私に人生の意味と真実について話しました。真実についてマークが言う多くのことを否定できずにいたものの、彼が「神」という言葉を発した途端、私は冷静に距離を置こうとしました。なぜなら私は、多くの日本人と同様、宗教アレルギーだったからです。西洋人がキリスト教の話をすることは、自動的に文化の違いによるものだと思いました。しかしマークは私に、“宗教”と“神を信じること”とは全く別物だと言うのです!私は、これまでの私の常識の枠に納まらない考え方に混乱しました。今では神様が私に、神が宗教を憎んでいること、そして国や文化によって真実が変わることはないということを見せてくれています。
余談ですが、日本人は無宗教といいつつ、子供が生まれれば神社にお宮参りして、七五三には神社や寺にお参りし、結婚式は教会と神社のミックス、死んだら仏教の葬式で高額をはたいて戒名をもらい、正月には神社や寺院に初詣して、クリスマスを祝い、バレンタインデーにはチョコレート交換をします。こんな滅茶苦茶な国は珍しいと思いますが、周囲と同じことをすること、それが日本の常識です。私は、マークと出会い、「真実」について聞いて以来、周囲と異なることを恐れずに、まわりに流されないで生きていきたいと思うようになりました。
その後も私は祝い事だけでなく、自分の日常生活についても見直すようになり、自分とボーイフレンドとの関係について疑問をもつようになりました。以前から、私は何が間違っているのかはわからないまま、なんとなく彼との交際を続けていたのですが、心の中にはどこか落ち着かない気持ちがあり、両親に対して後ろめたい気持ちすらありました。
その頃、マークから、結婚を前提にしない男女が付き合うことの害を聞いていました。また、結婚する意志の有無に関わらず、結婚前の男女が身体の関係をもつことは、神様の前に間違っているということについても聞いていました。マークが私に(ボーイフレンドがいることは知らずに)それを話した時、私はやっと、自分がなぜ罪悪感をもっているのかに気がつきました。私と彼の交際は結婚を前提にしたものではなかったのに(たとえ前提にしたものであったとしても)、私は気の向くまま、寂しいからという理由で彼の家に泊まりに行き、男女の肉体関係をもっていました。その結果、私にはいつも、「妊娠したらどうしよう」などの物理的な不安があり、(今思うと)さらにはそれ以上に自分の身体を感情のまま無責任に扱い、もてあそんでいることによる罪の意識がありました。しかし、自分の中には、親にも彼を紹介したし、世の中みんなやっていることだし、もうほどほどの年齢だし、彼のこと好きだし…などの言い訳をつくって、自分をごまかしていました。
また、私の彼との問題は、身体の問題のみならず、精神的な(今なら魂的と言えますが)面での問題もありました。二人で共通の興味の話しをしたり、デートしたりすることはできても、私の中にある「自分の人生に満足できない気持ち」は消えることはありませんでした。それを私は彼に正直に話すどころか、ただ夢のような恋愛関係にとどまることを選んだので、結局は彼に対しての不満が募り、ずいぶん自分勝手な態度をとっていました。思っていることさえも正直に話せないような関係でありながら、ふたりの将来の話をしたり、身体の関係をもったりしていたことは、今は神のうちに結婚して、反対側にいる私の視点から見ると、とても不自然なことだったとわかります。考えた末、私は、彼と別れることを決めました。
振り返ってみると、これまでつき合ってきた男性たちとの関係が、自分の心と身体を傷つけてきたと実感しています。男女が交際することは今の時代、少なくとも日本では常識で、それを誰も批判したりしません。しかし神様の世界、つまり真実の世界では違います。責任をもたない間違った行動には後々、つけを払うときが必ずきます。
前述のボーイフレンドとも、私は父の反対を押し切って、海外旅行に行ったことがありましたが、結局旅行先でケンカばかりして辛い思い出ばかりでした。最終的に彼と別れたときには、お互いに深い傷を残し合っただけであったと気づきました。たいていの場合、誰かが親の意志に逆らうということは、その人が神の与える権力に逆らっていることになるので(聖書にも「あなたの父と母を敬え(後略)(出エジプト記20章12節)」と、十戒のひとつとして記されています)、それによってその人は苦しむことになります。神は、神の法に従わない者には怒りを下すからです。
この頃、私はカラスの夢を見ました。夢の中で、なぜだかわからずカラスを殺してしまった私は、死んだ血だらけのカラスをどのように処理したらよいのか途方にくれていました。最初、ダンボール箱に入れて燃やそうとしましたが、燃やしたときのダイオキシンが気になってやめ、次に近所の建設現場に掘ってある大きな穴に捨てることを思いつきましたが、誰かに見られてしまうのが怖くてやめました。ダンボール箱からは血がもれてきていて、誰かに見つかるのではないかと心配になりました。今思うと、この夢は、私の中で実際に起きていたことを多く物語っていました。
マークと出会った年、私は好奇心から本屋で聖書を購入しました。聖書を買ってみたものの、以前に旧約聖書を読むのはカトリックで、新約聖書はプロテスタントだと聞いたことがあったので、教会に属さない私は一体何をどこから読んだらいいのだろうとまず迷いました。マークからは、聖書自体は宗派や宗教とは全く関係なく(むしろ聖書の中で宗教を否定している)、聖書は旧約と新約の両方から成る、実際に起きたことの記録であるということを教わりました。そこで旧約聖書から読み始めたのですが、まったく馴染みのないカタカナの名前の羅列とか、数字とか、どうして記述があるのかわからない部分が多く、永久に読み終わらそうな気がしました。様々な戦いの場面があって、人が死んだり殺されたり、「いけにえ」とか、「血」とか、単語だけみてもあまり穏やかな話しではなく、平和主義の私にはあまり楽しめる話ではありませんでした。
それもそのはず、聖書は人を楽しませるための話ではなく(とはいっても、神を信じる人にとって聖書は最も本物で、最も深くて意味のある書物ですが)、人の罪深さを知らせるための歴史書で、神は私たちに悔い改めよと伝えようとしているのです。当時の私にとって、聖書を読むことは単なる一宗教のお勉強にすぎず、ところどころにでてくるたとえ話や教訓などが、ためになる話だなと感心する程度で、それ以上に心をうつことはありませんでした。それは書かれていることが事実だとは全く信じていなかったのと、聖書は何か遠い外国での遠い昔話しであって、自分自身との接点を感じられなかったからです。自分には悔い改める罪などないとも思っていました。
自分の罪を悔いる
しかし、私には罪がないどころか、罪だらけでした。そのうちのひとつは、私のわがままさから、神の意志を無視するという罪でした。私のマークとの関係が、“ただの友達”以上になったとき、私は神の意志が何であるかなど考えたくもなく、自分の感情にのみ押し流されました。マークが日本での留学生活を終え、カナダに帰国した後、私はマークの住むオーガニック農場で、神を信じ、神の使いであるビクターが所有する「ハーベスト・ヘイブン」を訪れました。私はマークとの結婚を期待していて、その可能性を探るのが目的でした。
ところが、カナダに来てみてすぐに、私の抱いていた農場のイメージは、全くの自分勝手な空想だということに気がつきました。ここは、夢見る少女が遊びに来るようなドリームランドではありませんでした。ここにいる人々やここで起きていることはすべて、よくあるクリスチャンたちのふわふわとした「愛」とはかけ離れたもので、理想やきれいごととは無縁でした。
私は、いつもマークから「自分がやりたいことをするのではなく、やるべきことをすること」の大切さ、つまり自分の意志ではなく、神様の意志に従うことの大切さをきいていました。ではどうしたら、神があなたに何を求めているのかがわかるのでしょう。神から「信じる心」という贈り物を与えられない限り、それを知ることは不可能です。私にとっては、長い長い過程の中で、神から何度となく(時には直接、時にはマークや他の神を信じる人たちを通じて)答えが与えられました。その答えを受け入れられたときには、心の中が感謝で満ちあふれ、受け入れられないときにはつらい時期を迎えることを繰り返しました。
そんな現実に直面することで、私の決心は揺らいでいました。マークとの結婚という希望をもってカナダまで来てみたものの、目前にそびえたつ厳しい道は険しすぎて通りたくないと思いました。二人の関係についても、私たちが神の意志を探すことを忘れて、自分たちの勝手な感情を推し進めていることが明白になってきていて、私にはなんだかじれったく、あきらめ気分になっていました。私が好きなマークの信じる神だから「信じたい」と思った神様も、どうやらそう簡単に達成できるものではなさそうだとわかると、やる気を失っていました。現実逃避したい気持ちが強く、「とりあえず結婚は無理」という結論を早々に出して、とにかく帰国することにしました。
翌年、私は職場関連である国際研修に選ばれました。研修地のひとつがカナダであることを知り、私の中でまた農場を訪れなければならない時期がきたことがわかっていました。上司を説得して、研修に加えてさらに10日間の休みをもらい、ハーベスト・ヘイブンにファームステイすることにしました。これは職場でも異例の長さの休暇で、神様が私に必要な道を開いてくれたことに感謝します。
気合を入れて再びハーベスト・ヘイブンを訪れたものの、神を信じているここの人々の、すべてのことに正直で率直な人間関係を目前にして、「私には無理だ」と思いました。私が“真実が知りたい”と口先で言っているうちはきれいごとで済んだのですが、そこに本当に行き着くためには自分という人間が何者であるのかを直視しなければならず、それは楽なことではありませんでした。
ファームステイを終える頃、私の中には、もっと楽で楽しい生き方を望む声が高まっていました。自分自身に向かい合うという心地悪さから逃げ出せることにもほっとしていました。農場はすべてオーガニックで、なんだか食べているものや環境さえも、世俗的な私には美しすぎるような気がしました。精神的にも物理的にも、なんだかもっと汚れたものが欲しくなり、身体にいいものよりも、ジャンクフードが食べたくなりました。もうここでのことは全部忘れて、あとのことはなるようになるだろうと思っていました。
研修がはじまると、日本からの研修仲間や世界各国からの参加者とも再会し、私の中でこの自由を存分に楽しもうという気持ちが大きくなっていきました。もう神様なんていい、自分のやりたいことをやりたいようにやってやろうと思いました。ここにはファームの人たちはいないし、私が好き勝手やっても誰にもわからないと思いました。私はずっと食べたかったオーガニックではないポテトチップを買って食べました。化学調味料の味が妙に懐かしくて、体に悪いと思いながらもむさぼり食べました。そして研修中のパーティーで私は羽目をはずし、ストレスを発散しました。そして最終的には、その夜、ある国からの参加者にデートに誘われ、強姦されてしまったのです。
私は、なぜ私にこんなことが起きてしまったのだろうと愕然としていました。悲しいやら、どうしたらいいのかわからないやらで、混乱していました。そんなとき、研修の合間にメールをチェックしてみると、マークから次のようなEメールがきていました。「トレバー(マークの兄)が万里子の夢を見た。万里子がジャンクフードを食べて病気になり、瀕死の状態で病院に運ばれた。俺が泣いていて、万里子を病院に迎えにいかなければならなかった、という夢だった。万里子、どうしている?」。私はそれを読んだとき、コンピュータールームの椅子から転げ落ちるほど驚きました。吐き気がして、涙が止まりませんでした。私は神様から逃げるのなんて簡単なのだと見せびらかすようにジャンクフードを食べ、そしてパーティーで羽目をはずしました。そして待っていた結果は、夢の通り、私の心の瀕死状態でした。神は私に怒りを向けていたのです。私はそのとき初めて、自分が“まるごとすべて”間違っていたということに気がつきました。誰を責めることもできない、私に起きたことはすべて自分の罪の結果でした。私は、自分がしたことを心から悔やみ、生まれて初めて「懺悔したい」という気持ちになりました。
「神様をだますことは決してできない。どこにいても、何をしていても」。それが神様が私に見せてくれた教訓でした。
「自分の努力」対「神様」
私は、研修での出来事の約7ヶ月後、「もう二度と間違いを犯したくない」という気持ちから、今度は一年間、仕事を辞めて再びカナダの地を訪れました。ここに来れば、自分は神様を信じるようになり、罪が洗い流されて、“正しい”人間になれるのではないかと期待していたからでした。
“正しく”なるためには、まず自分が間違っていることを知ることから始めなければなりませんでした。そして、正しい人間など誰もいなくて、正しさがあるとすれば、それは神様からきているものであって自分の力ではないということも知らしめられなくてはなりませんでした。私が自分の力で正しくなりたいと思えば思うほど、神様は私にそれを見せるため、農場の手伝いで失敗を繰り返させました。些細な失敗、大きな失敗、数え切れません。私の中のプライドが泣き叫びました。自分の間違いを受け入れることがこんなにも難しいことなんて!私は農場の人々(特にマークとマークの母ロエス)に反抗しました。そして、自分は誰も理解してくれない、かわいそうな存在だと思っていました。私は、自分の中の殻に閉じこもりました。マークの母ロエスが、神様から私に対し「ドアを閉めないで」という言葉をもらったのは、その頃のことでした。私にはその言葉が神様からの言葉だとわかっていたので、今でも心に残っています。
ある夏の昼下がり、ハーベスト・ヘイブンの農場主であり、神を信じるひとりであるビクターは私にききました。「万里子は、ここに来て何かを学ぼうとしているの?」。私はここでやる気を見せないと駄目だと思い、元気よく「はい」と答えました。するとビクターは「ここで何かを学びたいのだったら、まず自分のコップを空にしないと駄目だ。コップの中が自分色の水でいっぱいになっているところに、他の色の水は入らないから」と言いました。
そしてビクターは、私に聖書の中の「ヨハネ1章」を声を出して読むようにいいました。ビクターにはわからないのに「日本語で声を出して読みなさい」と言われ、私は遠慮がちに読みはじめました。
「第1節:初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 第2節:この方は、初めに神とともにおられた。 第3節:すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 第4節:この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 第5節:光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
これらの節を読みながら、私はなぜか涙がとまらなくなっていました。自分の中に何が起きているのかは全くわかりませんでしたが、ただ、なにもかもの始まりが神であり、神がすべてを造ったのだ、自分もその一部なのだと気づかされました。今までの私の中にある“自分”という名のコップを空っぽにしてみたら、もしかしたら全く違う人生が待っているのかもしれないと思いました。
またある別の日に、ビクターの家を訪れて二人で散歩をしていたときのこと。少し丘高くなっているところで雑草を指差してビクターが言いました。「この雑草を虫が消費して、その虫を鳥が消費する。それと同じように神様は私たちを消費する」。そのとき、私の中でまた何かピンとくるものがありました。私は以前から世の中の仕組みについて、「不公平だ!」と思うことがあると、怒りに似た気持ちをもつことが多く、人種差別の問題などには、人一番正義感を振りかざしてきました。環境保護団体に勤めていたのも、自分が正しくありたかったからでした。学生の頃に自由課題のエッセイなどがあれば、差別問題や戦争や平和について焦点を当てていました。「正しくないことは許せない」という気持ちが常にありました。両親との関係においても、母には特に反抗的で、自分が正しいと思うことに母が同意してくれないと腹をたて、母が賛成してくれるまでしつこく議論したことがよくありました。
それらすべての私の中の頑固な視点や、いわゆる‘常識’が、なぜかビクターの「消費する」という言葉によってくつがえされ、溶かされていくようでした。神様が世の中をつくっている。神様がいいことも悪いこともすべてコントロールしている。戦争のように、一見悪いものに見えることさえも、神様の計画の一部である。“不公平”という言葉は、人間の目からそう見えるだけであって、いつも理由がある。たとえば私は、男女平等や女性の権利というものに固執してきたのですが、聖書には女は男に従い、男が神に従うと書いてあります。今の世の中の混乱は、すべて無秩序からきているものであって、不公平によるものではない。現代の教育現場の問題が、生徒の人権が欠けていることによるものではなく、教師の権威がなくなってしまったことにより引き起こされていることと同じことです。
私の中に、神が存在していて、神が私の人生もひっくるめ、なにもかもを左右しているという気持ちが芽生え始めていました。農場の日常の中で起きていることを、はじめて神の視点から見ることも経験しました。以前と同様の出来事でも、これまでとは全く違った観点をもてたことに驚きました。しかし、そんな気づきがありながらも、私の中でそれを現実として、また、自分のこととして受け入れるためには時間が必要だと感じていました。自分にとって都合のよいときのみの信仰で、それはつまり、信仰ではありませんでした。自分が正しくありたいがために神を信じているふりをしてみたこともありましたが、うまくいきませんでした。信仰は、神によってしか与えられないもので、自分の努力ではどうにもならないことを経験しました。
私は農場での一年を気持ちぎりぎりの中で終え、心の中には感謝よりも、(私にとっては)激動の毎日への疲れと被害者意識が高まっていました。まるで自分の中に二人の人間が存在していて、ひとりが神を信じていて、ひとりが疑っている。そのふたりが常に戦っている状態をどう変えてよいかわからず、とにかく日本に帰れることにほっとしていました。ただひとつ、帰国直前にビクターからもらった聖書の中の次の言葉だけが、私の心からずっと離れませんでした。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。 わたしはあなたがたに見つけられる。――主の御告げ。――わたしは、あなたがたの捕われ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。――主の御告げ。――わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」エレミア書29章 第11-14節
神様の救い
帰国後、私は自然野菜販売の会社に就職しました。自分にとって理想的で最高の仕事でしたが、健康にいいものを販売していながらも、身体はぼろぼろになっていました。いいものを食べていても、心の安らぐ暇がなかったのです。職場の人々や、友人や、家族と仲よく、物理的にオーガニックに囲まれた暮らしをしていても、心から満足することがありませんでした。一度真実を聞き、光をみたことがある私には、世の中の暗闇さが一層痛いほどで、自分だけが世の中に馴染めていないという感覚がありました。
これに関連して、日本に戻った後、私はある幻(まぼろし)をみました。大きな白い客船が港で出港を待っていました。船は誰かが来るのを待っていて、私には、それが自分だとわかっていました。私はその船に乗るべきか迷っていましたが、心の中で「乗らなくてはいけない」ともわかっていました。そのときにはこれに何の意味があるのかまったくわかりませんでしたが、後にその白い船がハーベスト・ヘイブンであったのだとわかりました。
その頃、周りの暗闇と馴染めないと言っておきながら矛盾のようですが、あまりの孤独感から、ある男性と不倫関係に陥りそうにもなっていました。そんなある日、やっとのことで私はビクターとマークにメールを書きました。助けて欲しいという気持ちでした。
ビクターから、すぐに返事がきました。「万里子、わたしはもしあなたが何かしない限り、そこでのあなたの生活やあなたを取り囲む環境、そしてあなたを取り巻く息を止めてしまうような暗闇の中で、あなたが(スピリチュアルに)死んでしまうのではないかと懸念します。ハーベスト・ヘイブンにしばらくの間(神様のご意思の間)、戻ってきたいですか。」
この手紙を読んだ瞬間、私は涙が止まらず、それと同時に私はまたカナダに行かなくてはならないということを確信していました。自分が生まれてはじめて一生続けたいと思った仕事を辞めることはつらく将来への不安もありましたが、(神様の前に)時間を無駄にせず、すぐにカナダに行きたい旨を家族と職場の上司に伝えました。
短期滞在を含めると4度目のカナダ訪問で、私は少し緊張していました。前回の訪問を考えると、もう戻りたくないはずだったのに、ここに来なければもう私の人生はないという気持ちがありました。それは神によって与えられた確信でした。今回はマークとの結婚が目的ではなく、ハーベスト・ヘイブンの人々を通して真実をきき、正され、悔い改めて、真の信じる者になりたいという “希望”をもっての訪問でした。自分が正しくあることへの期待やプレッシャーもありませんでした。私の中で、前回とは違った何かを感じていました。
農場に到着したとき、マークの母ロエスが「ウェルカムホーム(お帰り)」と言ってくれました。私は、自分の魂が安らげる心のふるさとにようやく戻ってきたような気がしました。日本に帰っていた3年間、心と魂が死んでいる自分というものを経験しました。自分自身というものに挫折し、あきらめ、神様を探しました。そして、前回自分でどんなに努力しても変えられなかった私に、神様が変化を与えてくれました。人間が神を選ぶのは宗教。神様が人を選ぶのが真実。救いを求めれば神様から神様のタイミングで与えられる。私はそれを自分自身ではっきりと体験しました。
2005年10月、神は私にホーリースピリット(聖なる御霊)を与えました。「神様の中に生きたい」「神様に自分の中に住んで欲しい」という気持ちが私の中で炎のように燃えていて、私の信仰はまだそんなレベルに達していないのだからと思おうとしても、その火を消すことができませんでした。私は神に、古い私を殺して欲しいと祈りました。
その日、私は、ホーリースピリットについてビクターに頼む気持ちが高まり、抑えられなくなっていました。実は、その日の朝、私は神に、「ビクターが、私がスピリットを受けることを祈ってくれるように、また私がビクターにそのことを頼む勇気が与えられますように」と神に祈りました。その後、私はビクターがオフィスにひとりで座っているのをみて、何か強い力が私を押して、私はビクターに祈りを頼むことができました。
ビクターは私に何か告白したい罪があるかをききました。私はこれまで犯した数多くの罪(男性関係、反抗心、妬みなど)を告白し、懺悔しました。ビクターはマークを呼び、ふたりは私に手をのせ、神のスピリット(御 霊)を祈り、私はそれを受けとりました。私は涙があふれて、止めることができませんでした。
いい人や正しい人間になることが目標ではありませんでした。むしろ、自分にどれだけ助けが必要かに気づくことで、神様に祈り、神様を信じ、神様によって正しくありたいと願うだけでした。世の中に振り回されるのではなく、神様の心に従って行動したい。いいこと悪いこと、楽しいことつらいこと、すべてのことに感謝できるようになりたい。
これまでを振り返ると、神様がすべて私のために立ててくれた計画のもとに生きてきたということを確信します。マークとの出会い、別れ、再会、カナダでの生活。仕事、恋愛、たくさんの罪。…どんな些細な出来事も、すべて神によるものでした。
カナダに来る以前にも、「世の中に起きていることに偶然はない」ことや、「何か自分の見えない力があるのではないか」という漠然とした考え方はありましたが、それが神の存在によるものとは思ってもみませんでした。ところが、神を信じるようになると、それらすべてのことに、明確な答えがあるということに気づきました。こんなにも確かで、心からつじつまの合う答えは、人によるものではありません!人には “意見”はあっても、(神様に与えられない限りは)“真実”はないということを、私は何度となく目撃しています。
2006年3月、マークと私は結婚しました。ついに、その結婚は、自分たちの勝手な欲求からではなく、神様の意志による、神様のタイミングによるものでした。当時私にとって結婚するということは、愛するマークと共にいられる祝福に満ちた幸福であるのと同時に、日本を捨て、信仰に生きることを決心するつらい選択でもありました。
私は日本が大好きなのに、日本にいる家族や友達、言葉、伝統や習慣などを手放したくないと思いました。そう思うことは、日本が私にとって神のような存在となっている証拠でした。神は、神様以外の神をもつことを禁じています(「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト記19章3節)」)。
私はそれを悔い改め、そうすることによって自由になりました。
私はここハーベスト・ヘイブンで、神様によって、ずっと探していた、本物の満足と自由というものを、生まれて初めて得ました。私が今いちばん大切に思っているもの、それは信じる心=Faithです。私が今欲しいもの、それはもっともっと強いFaithです。神様は、日々私にたくさんのことを見せ、答えを与えてくれています。文化でも、意見でもなく、誰がなんといっても太陽があるように、神様は存在します。私は、イエス・キリストが唯一の神であり、救い主であることを感謝し、ここに告白します。
Mariko (Shinji) Bensonベンソン万里子
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