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神に従うこと

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Obedience

いわゆる“キリスト教”教”kらの中には、ひとつの大きな呪いがかかっています。その呪いとは、「従う」という呪い。本”魔ヘ、そうなるべきではないのです。キリストの名を語るすべての人たちは、口だけでなく心から言うべきなのです。「私はあなたの意思ならば、喜んで従います、主よ、私の神よ」と。従うことは、呪いではなくて、祝福であるべきなのです。

どうして私は、従うことが人々にとって呪いだと呼ぶのでしょうか。それは、神への信仰を告”窒オている多くの人々が、従うことを忌み見下しているからです。人々は神の法を憎み、それはつまり神を憎んでいるということです。それは、振り払っても振り払えない、”゙らにとって邪魔な存在です。どうして私にそれがわかるのかですって?それは、もし私が、神への心からの本物の服従を人々に求めようとすると、それによって人々が私を憎み、ののしることが証拠です。人々は、宗教の活”ョに参加したり、慣習に習うことが「従う」ことなのだと思いがちですが、私がそうではないと指”Eすると、”゙らはいやがったりあざ笑ったりします。

「『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから?”く離れている。 “゙らが、わたしを”qんでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」 (マタイの福音書 15章8-9節)

かつて私は、あらゆる教会が立ち並ぶある町を、とりわけ宗教”Iだと思ったことがありますが、今では、どこに行っても教会をみるようになりました。イエス・キリストを礼”qすることは北アメリカで全国”Iに広がった病気のようです。テレビやラジオをつければ、宗教”ヤ組や説教を何時間でも聞けるし、新聞の宗教?”を開けば、教会での奉仕活”ョの宣”`であふれています。会合や宗教運”ョ、聖書研究にも、事欠きません。

しかしちょっと視”_を変えてみると、あらゆるところが無法地帯で、不正が行われています。右も左も、前も後ろも、まわりじゅう悪だらけです。世界はまったくの邪悪で満たされています。自尊心の塊が、地を埋め尽くしています。ほんのちょっとしたこときっかけで、貪欲さは”`染病のように広まっています。さらには、自分をクリスチャ?”と呼ぶ人たちこそ、信仰を公言しない人たちに劣らない、責めを負うべき人たちであると思います。”゙らは見せかけの、いんちき以外の何ものでもありません。神がたったひとつ、罪を咎めるとしたら、それは偽善です。だからこそ、自分たちを“クリスチャ?””と呼ぶ人々は、なおさら罪深いのです。

「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカの福音書 6章46節)

自称“クリスチャ?””よ、無宗教者たちを軽蔑するなら、どうぞそうしてください。結局のところ、あなたたちは”V国に行き、”゙らは”V国には行けないといいたいのでしょう。ひとりよがりの正義は、害虫のようなものです。あなたは”Vの神”aの柱になるつもりなのでしょうが、言わせてもらえばあなたはおめでたくも地獄の玄関マットと”ッじようなもので、今ですら地獄の”?り口の管理人として仕えているのです。あなたは目の見えていない、何も気づいていない人々を招き”?れ、そして一”x”゙らを取り込んだら、”?”xと”ヲげられないようにしているのです。

思い思いの教会に行き、どうぞ思い思いの奉仕活”ョをしてください。歌ったり、神を讃える言葉を叫んだり、イエス・キリストの“幸福”について語り、そうすることにより“あなたが”また一歩、”V国に近づくはずのための保証をつくったり。…もしあなたの気前がそんなによくて、あなたが奉っている神々のひとつにお金を奉”[したいのでしたら、あなたの信仰と忠誠を立証するため、あなたが通う教会に、全?”なくなるまであげればいい。しかしここで、あなたに言いたいことがあります。神に従わないかぎり、あなたのお金は神の祭壇に生理用ナプキ?”を捧げているようなものなのです。あなたが神を賛”?する言葉を叫んだり、歌ったりしても、それらのことばは、賛”?どころか猛烈な呪いのようなものですし、あなたの神に関する証言は、意地の悪い噂話か中傷のようです。あなたが神を賛”?するために振り上げた腕と開いた手は、”窒ュ握られた”{りのこぶしのように、あなたの創造主を、滅多やたらに引きちぎりばらばらにしようとしているのと”ッじことです。あなたの教会の礼”qは、下劣な乱交パ−ティと”ッじです。あなたの礼”qする建物は、みな邪悪で、”эt婦と”q”獅、ちでいっぱいです。つまり、いいと思うことには何にでも身を”р驍ゥら”эt婦のようだし、“”Gれ手で粟”でもあるまいし、たまに、けなげにいいことをしておいて、神の恩恵を受けられるときには、できるだけたくさんを期待するのは、ギャ?”ブラ−のすることと”ッじです。事実、あなたのやっていることは、あなたの最後の”?に下される厳しい審”サを、自分自身の上に積み上げているだけなのです。

そしてその”?はきました。その”?とは、今、この瞬間なのです。あなたはもう”ヲげ隠れすることはできません。あなたの隠れ家はもうないのです。隠されていたものが今、外に暴き出されていきます。あなたが周囲の人やあなた自身をだますことに成功していると思うのも束の間、神の裁断の時にあなたは、神様のことをだまし忘れたと気づき、荒々しく起こされなければなりません。神様は、もうこれ以上、容”Fしません。

神はあなたのしてきた輝かしい功績には興味がありません。あなたの涙にも、です。神はあなたの捧げ物や、口先だけの敬虔な話、人に振りまく笑顔、見せつけのフレ?”ドリーさを嫌います。神はあなたたちの教会の仲間たちを”Fめていないし、聖句の暗記も、世界を“救う””w力も”Fめていません。むしろ、神はそれらが大嫌いです。神が求めているのは、従うこと、そして、現実です。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼”qの罪だ。(後略)」 (サムエル記 第1 15章22-23節)

イエスを愛しているという者よ、自分は生まれ変わったという者よ、聖霊の洗礼を受けたという者よ、預言や異言で語り、神の御恵みのための偉業を為したと公言する者よ、このことを心に留めなさい。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな”Vの御国にはいるのではなく、”Vにおられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 」(マタイの福音書 7:21)

「何に従えばいいのですか。神様の心とは何ですか」とあなたは聞くでしょう。とても重要な問題です。心から知りたいと思って、心からたずねてみること。そうすればわかります。神は、あなたにそれを分かって欲しいですし、神はそれをあなたに”`えるため、私をあなたに送りました。

従うことには、次の3つのレベルがあります。

1、神の与えた常識”Iな”サ断力によって、”?々生活すること。聖書では、たくさんの罪について触れられており、私たちはその原則の上で行”ョをとるべきです。たとえば聖書の中に、「喫煙」の悪さについて”チに書かれてはいませんが、喫煙が身体を害する、だから喫煙するべきではないという結論を”アくのは、常識から考えて容易なことで、その理屈がわからないような人には、希望がありません。それでも喫煙を選ぶような人は”n鹿で、自ら”j壊を選んでいることになります(私が話しているのは、禁煙をしようとしてできない人のことではなく、喫煙が問題ではないと思っている人のことを言っています)。

理に”Kった原則が、神の法にはあります。十戒はそのよい例です。どのようにそうなのか、喫煙の例で、引き続き考えてみましょう。もしあなたが喫煙するとしたら、それによりあなたは、あなた自身とあなたの周りで呼吸している人たちを殺しているのと”ッじことです。それは、十戒のうちのひとつ、「殺してはならない」(出エジプト記 / 20章 13節)に”wいています。喫煙は”xの病や、心臓病や、癌をあなた自身や他の人たちに招き、あなたは、”[税者、あなたの隣人、社会の一員であるすべての人たちに金銭”Iな負担をかけているのです。あなたは、十戒の「”垂?ではならない」(出エジプト記 / 20章 15節)という戒めを”jっていることになります。そして、あなたが喫煙によって自らを”j滅に追い込むことは、「あなたの父母を敬え。(後略)(出エジプト記 / 20章 15節)」という法も”jっています。あなたの親は、あなたが苦しんで、おそらく親よりも先に死ぬことを喜ぶと思いますか。それが、父母を敬っていることになるでしょうか。このように、喫煙することひとつとっても、実は十戒のすべてを侵していることになります。神様を信じているといいながら、タバコを吸うことは私の権利だと主張する人は、大バカものです。「聖書にはタバコを吸うなと書かれていないから」と言い訳するのではなく、聖書に書かれた原則からわかる常識には従うべきで、無視するべきものではありません。

2、聖書に明記された掟に従わなければいけません。もしどのような掟があるのかを知らないのでしたら、あなたの人生のために、聖書を”ヌんで見つけ出してください。“無知である”ということは、世の中で思われているほど、楽しいことではありません。その知恵なしでは、あなたは死んでいます。たとえば、もしあなたが身近な誰かを憎んでいるとすると、それはあなたを”ニ罪者にし、神の前ではどんな死刑囚とも”ッ”凾ネほど有罪であると知っていましたか。もしあなたが結婚していて、別の女に性欲をもったとしたら、または自分が結婚していなくても、相手の女性が結婚しているのだったら、あなたは不貞の罪を”ニしていることになります。さらには、どちらも結婚していなくても、誰かに性欲をもつこと自体が姦淫の罪に相”魔オます。あなたは、そんなこと外見上どうせ分からないことだから、または、実際に有罪宣告を受けていないからといって、そのような罪から”ヲれられると思っていますか。私は、そのような人々が”ニした”髢ァの罪によって、実際に死への”ケを歩んでいる人たちを知っています。なぜかといえば、”゙らの罪は、いくら隠そうとしても神様には隠しきれないからです。神は、唯一の審”サです。神は、私たちのすべての罪をひとつ残らず裁く方です。あなたは、人が癌や心臓病を患うのは、苦しみや憎しみからきているものだと思いませんか。

もし、ある”ニ罪者がたった3″N間の服役で許されたり、または全く罪にも問われなかったりしたとしたら、あなたは「正義は一体どこにあるんだ」と”{るかもしれません。でもあなたは、本”魔ノ罪から”ヲれることが可”¥であると思いますか。それは、不可”¥です。いまだかつて”ヲれられた人は、誰一人としていません。たとえ人間が作った法律が、気持ちや心の罪を咎めなくても、神の法律では、それを”アします。あなたは神を信じているというけれど、それは心からそうだといえますか。あなたは、神が、人間が作った法律などよりもずっと要求”xの高い神の法に従って、あなたを”サ決することを信じていますか。神は、神の法をやぶるとき、態”xや考え方さえも要求します。もしあなたが神を信じるのでしたら、まるで神が存在していないかのように、どうやってあなたは、あなたの罪を続けるのですか。

聖書にはこう書かれています。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤの信”kへの手紙 / 6章 7節)

聖書はすばらしい本だと言う人がいますが、私は、聖書はすばらしい本という以上のものだと言います。聖書は真実を語りますが、もしそうなのだったら、それを”ヌみ、信じ、書かれたことを実行したらどうでしょう。もし実行しないのなら、そこに書かれている通り、無知と”ス抗による苦しみが、あなたの上にふりかかると気づいてないのですか。

イエスは神の子だという人々がいます。たとえイエスが単に賢くて、偉大なる教師で、預言者だと”Fめられているだけだとしても、人々がイエスの言う言葉について、心に留めるのは”桝Rです。知恵のある者や神の預言者は、バカではないはずですし、詐欺師でもないからです。教師が自分の話していることを理解していないのだったら、偉大な教師にはなり”セません。しかし、イエスこそが神の子なのですから、”゙の言うことがいつも最終結果です。聖書の中で神の法律について、神はこう言っています。

「わたしが来たのは律法や預言者を”p棄するためだと思ってはなりません。”p棄するためにではなく、成就するために来たのです。 まことに、あなたがたに告げます。”V地が滅びうせない限り、律法の中の一”_一画でも決してすたれることはありません。全?”が成就されます。 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを”jったり、また”jるように人に教えたりする者は、”Vの御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、”Vの御国で、偉大な者と呼ばれます。 」(マタイの福音書 / 5章 17-19節)

これら2つの”_、すなわち「神の与えた常識”Iな”サ断」と「聖書の中に明記された掟」というのは、神への服従を語るときに必要な”_ですが、この2つを守るだけでは、救われるには充分ではありません。「しかし、人は律法の行ないによっては義と”Fめられず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と”Fめられる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と”Fめられるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と”Fめられる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤの信”kへの手紙 / 2章 16節)と聖書にも書いてあります。

それが、「従うこと」に関する、3″ヤ目の重要な”_に続きます。

3、それは、「信仰」によって神に従うということです。神は神に召喚されている人たち個人個人に、確実で明確な要求をされます。それらの要求は、”チに神の掟から直接きているものではありませんが、神の法と合致したものです。たとえば主は、ある”?、私と妻にレスブリッジという町に来るように命じられました。私たちは、「信仰」によって神に従い、ここレスブリッジに来たのです。そのような要求は、どのようにして神の掟と合致するのでしょうか。それは、私たちは、神以外を神とすることなしに、私たちのすべてをかけて主を愛せと書かれている通りです。もし私が神の命令に”wき、レスブリッジに来ないことを選んだのなら、それはすなわち私が自分の好みでほかのことを望むからで、つまりは心から、魂から、神を誠心誠意愛していないということになります。

他のことを望むというのは、つまり、真の神以外の神を好んでいるということです。それは、それ自体の良し悪しとは関係なく、世の中の何でもがあなたにとってのいわゆる神”Iな存在になり”セます。それは、あなたの妻でも、子供でも、親でも、仕事でも、趣味でもスポーツでも、安心感でも、心地よさでも、娯楽でも、賢さでも、”?でも、教育でも、社会”Iな立場でも、権力でも、経済力でも、友人でも、健康でも、名声でも、人に”Fめられることでも、食べ物でも、テレビでも、大小関係なく何かを所有することでも、ある映画スターに夢中になることでも、欲望や堕落行為でも。…クリスチャ?”の場合には、これらにさらに多くの神が加わります。その神々とは教会であったり、祈りの時間であったり、聖書であったり、礼”qであったり、牧師であったり、宗教集会であったり、自分だけは正しいと思うことであったり、教会組織から受け”?れられることであったります。

この3”ヤ目の服従は厳しく”?しいもので、なぜならそれは「信仰」を問われることだからです。「信仰なくして主の意にかなうことは不可”¥である」し、「信仰によって私たちは救われる」からです。厳しく”?しいというのは、そこに「神の十字架」があり、あなたの死があるからです。神はあなたの心も、あなたが何を神よりも大事に思っているかも、すべてお見通しです。だからこそ、神はあなたに何が必要か、神があなたにどのような個人”I要求をするべきかをご存知なのです。従えば救いがあります。従わなければ、あなたは負けるのみです。これが一”ヤ重要なポイ?”トです。

かつて私は、?”い犬にすこぶる執着のある人を知っていました。その犬があまりに才”¥のある犬だったので、カナダ警察は、その犬を警察犬としてある歳になったら購”?することを、?”い主と契約しました。しかし、いざ”゙がその犬を引き”nす時になったら、?”い主は犬を手放すことができませんでした。私は神から、”゙が神への服従として、「その犬をあきらめるべき」という言葉を受け取り、その人にそれを告げました。すると”゙は、私のことを「自由を束”宸キる説教者」と”?”?して、歩み去りました。神はアブラハムに、”゙の実の息子をあきらめるように(殺すようにさえも)言いました。イエスは、若い金持ちの支”z者に、”゙の富をすべてあきらめるように言いました。私はその男に、単に”゙の犬をあきらめるよう言いました。もし私が、”゙のいうように「自由を束”宸キる説教者」なのだとしたら、イエスは暴君の中の暴君でなくて何ですか。その男は犬の”z隷で、主は、”゙をその犬の束”宸ゥら自由にしたかっただけなのに、神は感謝されるどころか束”宸フ罪を負わされるなんて!その結果、その男は、今”?まで、まだその犬を?”っているかどうかに関わらず、自分自身を鎖に”宸閧ツけたままにしているのです。

“゙は“dog”(犬)という単語を”ス対につづって“god”(神)としてしまったのです。「(前略)偶像を”qむ者たちに対する報いは、火と硫黄の”Rえる池である。(後略)」(ヨハネの黙示録 / 21章 8節)

たとえ神以外のものを崇”qしていても、何か良いことをすれば、その罪が補えるということはありません。神は代用品など受け”?れないのです。代わりのものをあてがうだけでは、問題の根本が解決していないからです。神は、あなたが従うべきことの”I選びに具体”Iな目”Iをもっており、“だいたい”、 “なんとなく”、従うことを望むほど、浅はかではありません。もし私が、金属を研ぐ仕事をしていて、上司にゴ−グルをしなさいと言われているのに、代わりに手袋をはめても何の役に立つでしょう。手袋で目を守ることはできません。

皆さん、神の法と個人への命令は、いつも私たちのためです。その目”Iは私たちを助けるためのものであり、邪魔をしたり、苦しめたりするためのものではありません。神は私たちの最善を望んでいます。それならば、なぜ従って、生きていこうとしないのでしょうか。

この「従うこと」3つ目の領域は、最も”?しいところです。時に、神の要求するものは、一見して良く思えなかったり、理屈が合わなかったり、賢明な選択には思えなかったり、正しく本”魔ナはないように見えるかもしれません。ですからあなたは、神のあなたに対する要求が、本”魔ノ神からきたものなのか、あなたや他の誰かの勝手な想像からきたものなのかを見極める必要があります。しかし主は時々、確かに奇妙なことを要求したり、ご自身にさえも矛盾に見えるようなことをしたりすることがあります。アブラハムは、自分の息子イサクを犠牲として捧げることを、確かにためらいました。アブラハムの時代になる前、“いけにえ”は異教”kがすることであったし、創世記にはこう書かれているからです。「人の血を流すものは、人によって自分の血を流される(後略)」(創世記9章 6節)。しかしアブラハムは、神がアブラハムに話しかけて、イサクの犠牲を要求したとわかっていたので、”゙はそれに従ったのです。

もし私たちが、心の中で神に従いさえすれば、神様は満足するのかと聞く人がいました。実に、従うことは心からくるものでなければならないのですが、”ッ時に服従は、私たちの行”ョにこそ表れます。心から神に従うためには、たったひとつの方法しかありません。それは、神が頼んだ通りに「する」ことです。行うことなしの信仰は、呼吸をしない身体のようなもので、それは死です。神は私たちに、神が喜ぶことを行わせようとしているのだから、私たちは行”ョに移さなければならないのです。

アブラハムが、神の法と明らかに矛盾している何かを求められたように、たとえば、「教会を離れなさい」というような、矛盾にしか思えないことを神に求められる人がいるかもしれません。きっとあなたはこう言うでしょう。「神が私に教会を離れろと言うなんてあり”セない。神は私たちに、教会に行って欲しいはずだ。教会は神のものなのだから」と。そうしたら、私はあなたに尋ね返します。「神の教会とは何ですか」。“教会”のもともとの意味は、建物ではなく、神を信じる人たち自体を指す言葉でした。自分が教会の一?”だったら、どうやって教会へ“行く”のですか。聖書には、「教会に行くこと」とは一言も書いていません。

あなたが礼”qに出席したり、ミーティ?”グに参加したりしているその組織は、“神の”教会であると、あなたは確かに“知って”いますか。それとも、ただそこの人たちがそう言うので、そう信じているだけですか。神があなたにそれを見極める目を与えたことよって”サ断したのか、それとも、”゙らが自分たちのことをクリスチャ?”と呼んでいるのだから、神のものであるはずだと思い込んでいるだけですか。”゙らが自分たちのグループを教会と呼び、牧師(またはリーダー”I存在)がいて、定期”Iな礼”qをひらき、賛”?歌を歌い、祈り、聖書を”ヌんだり、聖書を説いたりして、好意”Iなマナーで人々に接しているからといって、それが“神の”教会であるという証拠にはなりません。もし後者のようなことにごまかされての”サ断でしたら、それは見かけに左右されての”サ断であり、十分ではありません。

神によって預言者が遣わされたのは、このようなグループに神の言葉が”`えられるためでした。神の審”サは、もうそこまできていました。神はお”{りだったのです。それなのに、”゙らは神を拒絶し、神の預言者たちを”頼Qしたのです。もしあなたがそのような人々と共にいるのなら、あなたは実際に、預言者たちとはりつけにされたキリストに、石を”鰍ーた人々と”ッじ穴の狢(むじな)です。信じてください、これは本”魔フことです。

「その人間にとっては正しい”ケのように見えても、最終”Iにはそこから死へ続いている”ケというのがあります。」(箴言14章12節)

もしあなたが神とともに歩んでいくのでしたら、すべてのことを吟味して見直す時です。

神は、従わないことは謀”スであると言っています。そして不従順は魔術の罪として聖書に記されています(「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼”qの罪だ。…(後略)(サムエル記 I 15章23節)」。それゆえ、「私は神に遣えていて、神を愛しています」と言いつつ神に従わない人は、魔女や悪魔の崇”q者を”?”?することはできません。なぜならあなたは”゙らより優らないだけでなく、劣っているからです。もしあなたが自称クリスチャ?”であるのなら、それぐらいわかっているべきでしょう。あなたは神を信じていると公言していますが、”゙らは神を信じているとは言っていません。あなたは、聖書のことを神が贈った素晴らしい書であると言っていますが、”゙らはそう言っていません。神は、あなたがなまぬるいよりも冷たい方がましだと言いませんでしたか。驚くのは、聖書の中に、中”r”シ端な神の信者は口から”fき出されると書かれているのに(「 このように、あなたはなまぬるく、”Mくも冷たくもないので、わたしの口からあなたを”fき出そう(ヨハネの黙示録 3章16節)」)、それでも中”r”シ端な神の信者たちは”Mい者や冷たい者たちを見下して、全く自分の状況に気づいていません。そういう行”ョこそが、間違いなく、その信者たちを“なまぬるい”?”類だと裏付け、”゙らの本質を表しているのです。

そうしてあなたは、あなたがいうところの“クリスチャ?””の生き方をしつつも、「どこに平和があるのですか、喜びは、力は、神との交わりはどこですか。なぜ私の生活はメチャメチャなのですか。どうして神は私の声を、祈りをきいて下さらないのでしょう。どうして私は、神の声が聞こえないのでしょう」と問います。その”嘯ヲは、あなたこそが、神が求めることをしていないからです。もしあなたが“従うこと”の最初のレベルを無視してしまっていたら、神はどうしてあなたに、2″ヤ目のことについて話さなければならないのでしょうか。そして、もしあなたが2段階目のことで従わないのだとしたら、なぜ神はあなたに個人”Iに”゙の姿を見せ、さらに高い段階へとあなたを”アくための個人”Iな命令を与える義務があるでしょう。神は愚か者でも、物乞いをする者でもありません。神は何も見落としたり、ためらったりしません。ものには順序があり、最初は、最初のことです。聖書の中(使”k言行録 / 10章)で、コルネリウスは、救われるよりも前から、信心深く神を畏れ、畏れることはすなわち神を大いに尊敬していて、だからこそ、神からの声を聞いたのです。

人々の中には、神に祝福されていると思っている人や、祝福されているふりをする人がいます。そういった人たちは、自分たちが平和や喜びがあるといいますが、それは自分たちがそうあるべきだと思っているからで、”゙らは精一”tに、それを証明しようとしています。または、悪い魂にそそのかされ、いい気持ちになっています。世界中にはびこっている忌まわしいことは、いろんな種類のエクスタシー(恍惚状態)を人々はそれが神からきていると思って、感じていることです。”゙らに話してみてください!自分の中の悪に直接話すことになるという人もいるでしょう。”゙らは、あなたを無視したり、”ス論したりするだけでなく、時に暴力”Iになることもあります。少しでも”゙らに主張してみると、”゙らには何も拠り所はなく、本質もありません。神や聖書についての知識もなく、でも”゙らは「気分は最高!」なのです。”゙らは、真実を語る者のことを惑わされていると思い、さらには”スキリスト”hではないかとさえ怪しみます。「こんなにいいことに”ス対することをいうなんて。しかも明らかに神様からの贈り物なのに」と。

ただ口先からではなく本”魔ノ心の底から、主を求めなさい。もしあなたが心から主を求めるのなら、神があなたに要求することを、たとえ何であっても応える準”?をしなさい。もしあなたにそのような心がないのでしたら、神にその心を与えてくれるよう求めなさい。その祈りは、返事がないということがあり”セない祈りです。

あなたは本”魔ノ心から神の意志に沿いたいですか。あなたは神を知り、あなたの人生のすべての事柄について神から聞き、知りたいと思っていますか。あなたは、神自身の姿をあなたに見せて欲しいと願っていますか。そうしたいのなら、こうすることです(それが神の意志であるならば)。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を”゙に現わします。」(ヨハネ 14章21節)

上記の神の「戒め」とは、神からあなたへの個人”Iな指示です。それらこそ、従うことが一”ヤ”?しいのです。神からの個人”Iな指示に従うことは、あなたの心を、そして人生を要求するからです。聖書の中の若い金持ちの支”z者を覚えていますか。”゙は小さいときから神のすべての戒めを守ってきたと言いました。すると、イエスは個人”Iな指示を与えました。

「イエスは、”゙に言われた。もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を”р阨・って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは”Vに宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マタイの福音書 19章 21節)

“゙は金持ちであったため、すべての富をあきらめることができませんでした。”゙には、すべての掟を守ることはできているという確信があったにもかかわらず、その男には「信じる心」がなかったのです。掟を守ること自体は、信仰がほとんど、または全くなくてもできることなのです。掟には「父、母を敬え」とありますが、もしイエスが来て、「”゙らを捨てなさい。」と言ったり、「(前略)主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(ルカによる福音書 9章59節)と言ったその人に、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、…(後略)」(ルカによる福音書 9章60節)と言われたりしたら、あなたはどうするでしょう。そんなときでも、あなたに信仰はありますか。従えると思いますか。主は、あなたの人生にある問題を”I確に指”Eし、そしてその指”Eはいつも、決してなまやさしいものではありません。従うことには、苦しみが”コいます。神はうわべだけの気持ちには興味はありません。神に召されるすべての人は、必ず、十字架によって神の子のところに来なければなりません。ほかに”ケはありません。神はあなたが身体を犠牲することではなく、従うことを要求しているのです。

私(神)の名によって召された私の人々へ、人間自身を讃えるのが好きな、邪悪な罪人たちの中から脱け出しなさい。自らを喜ばせることだけに”M心な人たちの中から脱け出しなさい。あなたの罪を悔い改め、あなたの崇”qする神から立ち返り、すべての誤りを取り除き、正しいものを探し、自分よりも他人のことを考えて人に接することを目指しなさい。真剣になりなさい。私(神)はあそんでいるわけではありません。もうわかっているはずです。”チに私(神)の名において、あなたが”?体の強い欲望で身体を満たさないように。心の神聖を探して、世の中を愛したり、自分を喜ばせることをしたりしないでください。そうしたら私はあなたを受け”?れ、あなたは私の子となり、私はあなたの父となり、あなたを前に進ませ、慰め、あなたに必要なものを与え、すべての危害からあなたを守り、そしていつもあなたに祝福を与えます。そして、やっとあなたは、ずっと探していた平和を知ります。私の憤”{をあなたに注がせないでください。みだりに私の名を語る人たちから離れなさい。”゙らは悪の教義を教え、”゙ら自身も他人をもだまし、”゙らが私をあがめて仕えているという勘違いをしている間に、”゙ら自身を”j壊しています。あなたの周りをみてください。私は、理由もなく、死や、病や、離婚や、借金をもたらしたわけではありません。私はあなたたちの信仰を試すためにそれらをもたらしたわけでもありません。私がそれらをもたらした理由は、あなたたちの罪であり、あなたたちが守ろうとしているもののためです。悔い改めなさい。そうしたら、私はあなたを赦します。そこから出てきなさい。私があなたを癒し、清め、そして、救い出します。快楽ではなく、人生を選びなさい。そうしたら、私はあなたに未来永劫までの喜びを与えます。そのように、神様が言っているのですから。…

結論

従うことには、3つの領域があります。

1.常識に従うこと

正しいことをして、行”ョを慎むこと。

2.神の法を守ること

神の法は一”xも”p止されていません(もし私が間違っているのでしたら、自分の”?体が欲することをすべてしてみてください。法がもう存在しないのなら、ペナルティもなく、何の問題もないはずです)。

3.神があなたに個人”Iに要求していることが何かを知ること。そしてそれに対してすべての代価を惜しまずに、何があっても従うべきだ

そうしたら、あなたは”V国のご褒”?を手にして、イエス・キリストがあなたに姿を現すことでしょう。あたなは真実を知り、その真実があなたを自由にします。あなたは自由ですか

従うことのはじめの”?つの領域は、あなたに大いに利益をもたらしますが、あなたを自由にすることはありません。イエス・キリストを信じていなければ、自由になることはありません。あなたの宗教仲間やあなたの教会のリーダーたちのいうことをきいてはいけません。もし”゙らがあなたのための神の遣いなのだとしたら、”゙らはそこにはいないはずです。仲間、親戚、”?体に甘んじないで。それらはいつもあなたを躊躇させます。それは”゙らの仕事です。あなたは、アブラハムのように、必要ならば、たとえあなたがひとりでも(ひとりの場合がほとんど)ですが、そこから脱け出す準”?をしなければなりません。

「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(テサロニケ人への手紙 第1 5章24節)

Victor Hafichuk

ビクター・ハフィチャック

翻訳 Mariko Benson
Translated into Japanese by Mariko Benson

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