Print Friendly, PDF & Email

真実とは、こういうことだ

EnglishFrenchJapaneseRomanianRussianSpanishVietnamese

Here Is the Way It Is

 

神は存在します。これまでもずっと、そしてこれからもずっと存在します。神のみが永?”に存在します。だからこそ、神はすべての上に存在します。すべては神のものであり、神は神が好むことをします。それは、永久に変わることのない事実です。

神は、自分のかたちに人を創造し(創世記 1章27節)、神の姿を人に現わし、人と通じ合っていました。神が人を神の姿・かたちに創ったのだとしたら、神は人と通じ合いたいと思わないでしょうか、そして、それを続けたいと思わないでしょうか。神は直接”Iに、そして、個人”Iに私に話しかけたことがあります。私だけでなく、多くの人たちにも話しかけています。

神は神の創ったものすべてに、設計図をもっています。”チに神の子どもたち、つまり本”魔ノ神を信じて従う人に対し、設計図をもっています。

「しかし、”゙を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、”゙は神の子となる力を与えたのである。 それらの人は、血すじによらず、”?の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」(ヨハネによる福音書 1章12-13節 口語訳)。

神の計画の中には、いいことだけがあるのではなく、悪いことも含まれます(「神の計画には“悪”が果たす役割もある」リ?”ク先は英語のみ)。神は「善」に対して「悪」を創り、「悪」に対して「善」を創りました。神は、人に自分勝手なことをあえてさせ、その結果による大変さを学ぶ機会を与えました。それが、私たちが「悪」を実行したときには悪い結果の報いを受け、「良」を実行したら良い結果がでることを学ぶことのできる唯一の方法であり、私たちはその過程を通る必要があるからです。

「”?造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、”ッ時に希望も持っています。つまり、”?造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」(ローマの信”kへの手紙 8章20-21節 新共”ッ訳)。

最終”Iには誰も、自分が言われたことや、されたことに対して「そんなこと私は知らなかったから」と言うことはできません。私たちの誰もが「悪」を知った上で実行し、それによる”桝Rの報いを受けているだけなのですから。それを克服して初めて、悪に対する勝利についても知ることができるのです。

私たちに「良」と「悪」の違いを教えるため、神は“神の法律”を私たちにもたらしました。私たちが聖なる経”Tと呼び、旧約と新約の両方から成る「聖書」という本に、その法律は記されています。これが、神の法律をあらわす最も確実で、最も古い記録です。聖書は、?”百”Nだけではなく?”千”Nの間ずっと、神が人を通して記し編纂した、たったひとつで本物の、権威のある本です。この本は私たちに神が誰であり、神がどのように”ュくかという仕組みを理解するためにヒ?”トを与えてくれます。

聖書は、神が4000″Nもの間、どのように人類に対応してきたか、どのように人を神の姿にかたどってきたか、という記録でもあります。神が大勢の人の中から、神に近づくべき人をひとりずつ呼び寄せ、神の目”Iに沿って、”アいていった記録です。人が、将来、神により近いところへ”アかれるために、あらゆる悪に対して試され、神によって型づくられ、準”?するための、悪に対する戦いの記録です。

悪とは何でしょうか?悪とは、神の意思、神の法律、または本来あるべき神の姿に対し、”ス対の態”xをとることです。誰かが悪を行うということは、誰かが罪を”ニしているのと”ッじことです。誰かが罪を”ニしているということは、つまり自分が悪のとりこになっており、罪に対する主権を失っている状態です。罪の”z隷には、ほかの選択肢がありません。聖書に書かれている通りです。

「知らないのですか。あなたがたは、だれかに”z隷として従えば、その従っている人の”z隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える”z隷となって死に至るか、神に従順に仕える”z隷となって義に至るか、どちらかなのです」(ローマの信”kへの手紙 6章16節 新共”ッ訳)。

人は、自分がやりたいと思うことを、自分のために選択してきたことによって、罪の力の支”z下にいることになりました。人が、“自分の””サ断で正しいと思うことを、“自分のため”に選んで行うこと。それが罪というものなのです。次のように書かれています。

「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には”?しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、”゙も食べた」(創世記3章6節 口語訳)。

「そのころイスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った」(士師記3章6節 口語訳)。

聖書には、人がどんなに悪に対して無力で、弱い存在なのかが書かれています。自分が悪を選択することによって、悪に圧”|されて”z隷となり、人は正しいことをすることさえしたくないのです。

「では、どうなのか。わたしたちには優れた”_があるのでしょうか。全くありません。既に指”Eしたように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。“正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない”」(ローマの信”kへの手紙 3章9-11節 新共”ッ訳)。

さらに聖書には、私たちがどんなに、自分以外の誰か=外の力(つまり神)によって、自分をしばりつけている悪から自由にしてもらうことを必要としているかが書かれています。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(ローマの信”kへの手紙 5章6節 新共”ッ訳)。

ついには、神が、悪の力から人を救うために、どのように魂の世界から”?となって地上に降りたということが記されています。

フィリピの信”kへの手紙 2章5-11節 新共”ッ訳

5節: 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

6節: キリストは、神の身分でありながら、神と”凾オい者であることに固執しようとは思わず、

7節: かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と”ッじ者になられました。人間の姿で現れ、

8節: へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

9節: このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

10節: こうして、”V上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、

11節: すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

「信心の”驍゚られた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは”?において現れ、“霊”において義とされ、”V使たちに見られ、異邦人の間で宣べ”`えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」(テモテへの手紙一 3章16節 新共”ッ訳)。

すべての人間の心の中には、自尊心と”ニ立心があります。その自尊心と”ニ立心はとても深いもので、神がそこから人間を救うためには、神自身が人間の形となって地上に現れ、神自らの自尊心や”ニ立心を捨て、人間に代わって私たちの罪のために殺されなければならなかったほどです(神のそれほどの行”ョが必要だったほど、私たち人間は自尊心と”ニ立心によって“専制政治”I”にコ?”トロールされているのです)。神は人間を神の次元のレベルに救い出すため、イエス・キリストというひとりの人間の形となって現れました。

「イエスはこうお”嘯ヲになった。“人の子が栄光を受ける時が来た。” はっきり言っておく。一粒の”桙ヘ、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書 12章 23-24節 新共”ッ訳)。

イエス・キリストは、神が”?体として具現化したもので、神の法の成就を表しています。人間が、神の息子として神の御前に生きる、本来の姿の見本が、イエス・キリストです。

ヘブライ人への手紙 1章1-4節 新共”ッ訳

1節: 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、

2節: この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。

3節: 御子は、神の栄光の”ス映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、”Vの高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。

4節: 御子は、”V使たちより優れた者となられました。”V使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。

イエス・キリストは、人間と神の間の、ひとつしかない(両面交通の)架け橋なのです。それは、私たち側から父なるイエスにたどりつける唯一の”ケであり、真実が形になった唯一のもの、そして、人生の真髄です。

「イエスは言われた。“わたしは”ケであり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書 14章 6節 新共”ッ訳)。

イエス・キリストという、神が人間となってあらわれた存在が、罪びとである私たち皆(歴史上の人間ひとり残らずが罪びとでした)のために命をなげ捨てました。そして墓に”?って3″?後、イエス・キリストは、神を信じるすべての者の中に生きるため、神の力でよみがえりました。

どのようにしたら、私たちは罪から、そして、悪の力から救われるのでしょうか。それには、ひとつだけの方法しかありません。それは信じることです。主イエス・キリストが、悪や罪、死ぬことそのもの、罪による結果を克服したものであると信じ、告”窒キることです。なぜなら、イエス・キリスト自身が自らの死さえをも受け”?れ、乗り越えて、私たちのためによみがえったからです。

「聖書にも、“主を信じる者は、だれも失望することがない”と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に”ッじ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。“主の名を呼び求める者はだれでも救われる”のです」(ローマの信”kへの手紙 10章 11-13節 新共”ッ訳)。

この究極の犠牲愛という行”ョを通じ、すべてのことの上にある主(しゅ)であるという権利と、すべての崇”qは神に与えられるべきであるという権利を確立しました。神はこの名誉を、私たちに向けた完璧の愛の結果、おつくりになりました。私たちが神のみを崇”qすることは、神にとって誉れであるだけではなく、私たちにとっても、最も優れた栄誉です。気質、正しさ、すべての面で偉大な神を、人として崇”qする権利と機会を与えられていることは、私たちにとって大きな”チ権だからです。

神を崇”qするということは、神の言うことをきき、信じ、そして従うことです。神の法と戒めを、一”ハ”Iなことだけでなく個人”Iなことででも、守ることです。では、どのように信じるのでしょか?神のいうことをきくことによってです。どのように神の言うことがきこえるのでしょうか?聖書には次のように宣言されています。

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ”`える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ”`えることができよう。“良い知らせを”`える者の足は、なんと”?しいことか”と書いてあるとおりです」(ローマの信”kへの手紙 10章 14-15節 新共”ッ訳)。

どうしたら、ある人が神のメッセ?”ジャー(神の遣い者)かどうかわかるのでしょうか?それを知ることは、純粋に神からの贈り物であるとしかいいようがありません。

「シモ?”・ペトロが、“あなたはメシア、生ける神の子です”と”嘯ヲたすると、イエスはお”嘯ヲになった。“シモ?”・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの”Vの父なのだ」(マタイによる福音書 16章 16-17節 新共”ッ訳)。

神が見せなければ、その”嘯ヲを知ることはありません。心が清ければその”嘯ヲを知ることが与えられます。

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイによる福音書 5章 8節 新共”ッ訳)。

心が清い人とは誰でしょうか?どんな対価も惜しまず、正しいことをして、誰に対してでも例外なく正義”Iな行”ョをし、真実の中に歩む決心をもつ人です。

「どのような人が、主の山に上り聖所に立つことができるのか。それは、潔”窒ネ手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し救いの神は恵みをお与えになる。それは主を求める人ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。〔セラ〕」(詩編 24章 3-6節 新共”ッ訳)。

そのような性質は、神からの贈り物でしかあり”セません。なぜなら人というものは本来、神の意思とは”ス対の、頑固な性質に牛耳られているからからです。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準”?してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(エフェソの信”kへの手紙 2章8-10節 新共”ッ訳)。

神を崇”qするということは、教会のメ?”バーになったり、礼”qに通うことではありません。聖書を”ヌむことでも、神について人に話すことでも、祈ることでも、断食をすることでも、教会に寄付することでも、貧しい人にお金を寄付することでも、清く生きることでも、聖歌隊に”?って賛”?歌を歌うことでも、”チ別な洋服を着ることでも、お酒・タバコ・麻薬、映画などの娯楽を”?けたり、化粧をしないことでもありません。このようなことをする人たちは、神を崇”qしませんが、神にとって”゙らに価値がないのではなく、”゙らがそのようなことをするからです。

テトスへの手紙 3章4-7節 新共”ッ訳

4節 しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、

5節 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

6節 神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。

7節 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永?”の命を受け継ぐ者とされたのです。

神を崇”qすることは、牧師や、宣教師や、教師や、教会役員や、聖職者や、宗教団体でえらくなることとは関係ありません。

「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」(ヤコブの手紙 3章1節 新共”ッ訳)。

これらの宗教”Iな地位が神のものであると私たちに信じさせたいのは、実はサタ?”(悪魔)です。

「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである」(マタイによる福音書 24章24節 新共”ッ訳)。

「かつて、民の中に偽預言者がいました。”ッじように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。”゙らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒”ロしました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が”゙らのみだらな楽しみを見倣っています。”゙らのために真理の”ケはそしられるのです」(ペトロの手紙”? 2章1-2節 新共”ッ訳)。

私は、イエス・キリストの中において、真実を話すことによって、サタ?”の言うことが間違っていることを証明します。人による宗教”Iな活”ョや、聖職者たちの活”ョは、神への本”魔フ崇”qのための代用品になる可”¥性があり、事実、多くの場合、代用品です。これこそが、パリサイ人(形式主義者)たちがしていたことではないですか。聖書には、パリサイ人が神を崇”qしなかっただけにとどまらず、サタ?”の虜としてイエス・キリストを十字架に架けることさえもしたと書かれてはいませんか?そう、そういうことです。神を崇”qすることと、宗教活”ョをすることとは、何の関係もないのです。

罪の中にいる人々は、自分自身を崇”qしています。心、魂、”ェ、全力すべてを、自分のために使っています。人は、神を崇”qすることを”?けるためなら、何でもします。なぜでしょうか?それは、神を本”魔ノ崇”qするためには、自分を崇”qすることをやめなければならないからです。自分崇”qをやめるためには、人は死ななければなりません(リ?”ク先は英語のみ)。神のものとして受け”?れられる方法はただひとつ。それは、神の力と神の慈”゚により、信じることを通して、主イエス・キリストの十字架とともに神と一体になることです。

ルカによる福音書9章22-24節 新共”ッ訳

22節 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから”r斥されて殺され、三”?目に復活することになっている。」

23節 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、”?々、自分の十字架を”w負って、わたしに従いなさい。

24節 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

「イエスが私たちを救うために、もうすべてしてくれたから」と多くの人がいいますが、わたしたちは何もしなくてよいわけではありません。神についていき、神の死の中で、神とひとつにならなければなりません。それ以外の方法はありません。それは、罪(神の法を”jること)を悔い改めることのみならず、私たちが大切にしているもの、近くにあるものをすべてあきらめることです。悪いことだけでなく、よいこともあきらめなければなりません。だからこそイエスが、すべてを捨てて死に、十字架を”w負う覚悟がなければ、私たちは”゙にとって価値がないと言ったのはその理由からです。

神は、「いざとなったら捨てるつもりがあるかどうか」を言っているのではありません。私たちはそうしなければならないのです。やる気があるのと実際に実行するかどうかには、雲”Dの差があります。その差こそが、本物かニセモノか、心からか偽善からか、神の羊となるかヤギになるかの分かれ”ケとなります。

多くの人が神を信じていると言い、神の意志によって行”ョしていると言います。世の中にはイエス・キリストを信じることについて教える人は腐るほどいますが、もしそれらの人々が本”魔ノ皆神を信じていたとしたら、この世の中は生きていくのにもっと違った世界になっているはずでしょう。多くの人が本”魔ノ神を信じていると思い込んでいるのですが、いざそれを行”ョに移し、十字架にかかる段階になると、”r端にそれを実行することができなくなったり、自分にとって大事なものをあきらめたくないという気持ちになってしまうのです。”?体の性質とはそういうものです。苦しむことや死を”?けることを好み、従うことを嫌がるのです。その”_、私たちは皆”ッじですが、だからこそ全世界の人々が皆、救世主を必要としており、神に従うためには、神の恵み(リ?”ク先は英語のみ)(恩恵と力)が必要なのです。

驚くべきことに、口だけで神を信じるという人たちの多くは、神に要求されたことを直接拒”ロすることはしませんが、神が本”魔ノ要求していることをほかのことにうまくすりかえて代用します。”゙らは聖書のケイ?”のように、神に捧げものをします。犠牲”Iな行”ョにでたり、様々な宗教”Iな活”ョに参加したり、口では神を賛”?しながら、他の人々にもそうするようにすすめます。神の本”魔フ要求を無視しても、まるで神が”゙らを衰退させることができず受け”?れるかのように、自分勝手に決めた”ケを行くのです。しかし、”゙らに神をだますことはできず、結局うまくいかずに、無駄な”ュきとなるのです。

ルカによる福音書11章39-42節 新共”ッ訳

39節 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ”hの人々は、”tや皿の外側はきれいにするが、自分の”熨、は強欲と悪意に満ちている。

40節 愚かな者たち、外側を造られた神は、”熨、もお造りになったではないか。

41節 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。

42節 それにしても、あなたたちファリサイ”hの人々は不幸だ。”哩ラや芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。

宗教”Iな”ュきは、無駄となるだけにはとどまりません。神が本来要求していることの代用品として宗教を使うことは、神の”{りを最大にかう”ケでもあります。それは、神の”¥力に対しての侮辱です。神の全”¥さを見れば、いかにひどい侮辱であるか一目瞭然です。それは”ス乱です。(聖書のサムエル記上の15章をお”ヌみください。預言者のサムエルが、イスラエルの王のサワル王の罪について、従うことは犠牲よりもいいことであり、”ス乱の罪は魔力のようなものであると言ったと書かれているほど、”ス逆は重い罪なのです。)すべてのことがよさそうに言っておいて、実は行”ョが”コわずに、神や人の前で悪をよく見せようとすることは偽善です(「神のくびきは負いやすい」歌:リ?”ク先は英語のみ)。

聖書にこのように書かれています。「主を憎む者どもは、主にへつらっているが、”゙らの刑”アの時は永?”に続く」(詩篇81章15節 新改訳)。イエス・キリストが偽善者に話したときの言葉ほど、厳しい言葉はありません。イエス・キリストが対立したのは、一”ハの人たちや、神の国イスラエルを支”zしたローマ人でもなく、宗教家たちでした。

神と宗教はいつも相”スするものでした。宗教”Iなカイ?”が、正しいアベルを殺したように、また、歴史上、宗教”Iな指”ア者たちが聖人や預言者たちに石を”鰍ーつけて”頼Qしてきたようにです。イエス・キリストの時代には、これらのいわゆる“神の人々”がイエスを十字架に架け、”゙の使”kと子供たちを”頼Qして殺したのです。

イエスは私たちに本”魔フいのち、つまり、神を魂と真実の中で崇”qすること、を与えるために来ました。

ヨハネによる福音書4章20-24節 新共”ッ訳

20節 わたしどもの先祖はこの山で礼”qしましたが、あなたがたは、礼”qすべき場所はエルサレムにあると言っています。」

21節 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼”qする時が来る。

22節 あなたがたは知らないものを礼”qしているが、わたしたちは知っているものを礼”qしている。救いはユダヤ人から来るからだ。

23節 しかし、まことの礼”qをする者たちが、霊と真理をもって父を礼”qする時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼”qする者を求めておられるからだ。

24節 神は霊である。だから、神を礼”qする者は、霊と真理をもって礼”qしなければならない。」

今”?、多くの‘エルサレム’や、多くの‘山’が存在します(教会宗”h、宗教組織のこと)。しかし、その中で神を見つけることはできません。神はそこにはいないのです。そうではなく、神は単に存在するのです。私たちが霊と真理をもって崇”qするとき、神はいるのです。神のところに来てください!

多くの人は、それらの‘山’や、‘小さな森’や、高い場所や、教会で自らをだまします。皆、教会に行くことで神を喜ばせると思っているのです。しかし、実は神を喜ばせるどころか、神の”{りをかっているのです。

「どの小高い丘にも、どの茂った木の下にも、石柱やアシェラ像を立て、主が”゙らの前から移された?”国の民と”ッじように、すべての聖なる高台で香をたき、悪を行って主の”{りを招いた」(列王記下 17章10-11節 新改訳)。

“゙らは聖書を暗記することで神を喜ばせると思っていますが、”゙らの心の中に神の言葉を書き記す方が、神にとってはずっと価値があることなのです。

「わが子よ、わたしの言うことを守り、戒めを心に”[めよ。戒めを守って、命を”セよ。わたしの教えを”オのように守れ。それをあなたの指に結び、心の中の”ツに書き記せ。」(箴言 7章1-3節 新改訳)。

“゙らは社会”Iな習慣が神を喜ばせるものと思っていますが、神は、神の本質に欠ける見かけだけのものを軽蔑します。

「あでやかさは欺き、”?しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる」(箴言 31章30節 新改訳)。

“゙らは、長々と続くいくつもの願い事や、”ッじことを何”xも繰り返して祈ることが神を喜ばせることだと思っていますが、実は”ス対です。神はそれを異教”kがすることであり、忌まわしい行為であると言っています。

「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉?”が多ければ、聞き”?れられると思い込んでいる。”゙らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイによる福音書 6章7-8節 新改訳)。

「〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い”|し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない〕」(マタイによる福音書 23章14節 口語)。

“゙らは、宗教”Iに信仰の話しをして歩くことが神を喜ばせることだと思っていますが、実は、それは話しをきく人々を”゙ら自身の2″{も地獄に近づけているだけです。

「律法学者たちとファリサイ”hの人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より”{も悪い地獄の子にしてしまうからだ」(マタイによる福音書 23章15節 新改訳)。

“゙らは、立”hな教会を建てたり、教会に寄付したり、牧師を雇うことが神を喜ばせることだと思っていますが、神は”゙らが神のためではなく、”゙ら自身のためにやっていることを知っています。

これらは、主イエス・キリストへの見せ掛けだけの信仰です。”゙らはまた、魂と真実で神を本”魔ノ崇”qする人々を軽蔑し”頼Qしているにもかかわらず、それで神に奉仕していることだと勘違いしています。

「人々はあなたがたを会”ーから追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。”゙らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」(ヨハネによる福音書 16章2-3節 新改訳)。

真実とはずばり、そういうことです。教会で格式ばった礼”qをしたり、宗教”Iな活”ョを行ったりしても、そこに神は存在しないのです。神は、宗教システム、宗教組織の中にはいません。神が存在しないだけでなく、これらは神に相”スした存在です。儀式や形式は、人の決めた‘正義’が表われているもので、実はサタ?”(悪魔)の魂を喜ばせる行為です。人が神の名を使って、神が憎む行為をすることは、神が一”ヤ憎んでいることです。

宗教”Iな人は、本物の魂と真実で神に仕えるものたちに関わることを嫌います。”゙らとの関わりによって、宗教の本質が表面に浮き出てきてあらわになるためです。”゙らは本物の真実を語る人々をあざけり、”{りを向けます。本物の正義は、人の”ュきや”w力によってではなく、神への真の信仰によってのみ存在します。

中身のない”セ意げな崇”q者は、小さい者、簡潔なこと、一風変わったこと、慣習にとらわれないこと、”?国教”kなど、権威の外側の存在をばかにします。しかし神は逆に、そういった権威に対してこそ、神の恵みと力を見せることをあえて選びました。聖書に書かれている通りです。

コリ?”トの信”kへの手紙一 1章27-29節 新共”ッ訳

27節 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。

28節 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に”凾オい者、身分の”レしい者や見下げられている者を選ばれたのです。

29節 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。

もし神があなたを呼んだら、あなたは神の真実の中に歩み、生きることに呼ばれています。神との歩みの中で柱となるのは、神に従うことであり、それがその本質です。

「わたしの掟を受け”?れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」(ヨハネによる福音書 14章21節 新改訳)。

神が主(しゅ)と呼ばれることは、実際に神に従うことがどんなに大切なのかを強調しています。しかし、多くの人が「神よ、神よ」と言いながらも、神に従うことを拒”ロし、無視しているのです。人々は、神に仕えることや、神にささげることを申し出ることはしても、神が一”ヤ要求している神の法律をなおざりにしています。

これらのことを教えることで、私はカルト呼ばわり(リ?”ク先は英語のみ)されています。しかし、あざけるものたちは、言葉に注意しなくてはなりません。私は神に送られた者であり、私の言うことを受け”?れ行う者は、神からの祝福を受け、平和と神の”ノ栄を”セるでしょう。”ス対に、耳をふさぎ、自分勝手な”ケを進む人々は、ノアの”?舟の時代の人々のようになるでしょう。神はまばたきをやめました(リ?”ク先は英語のみ)。真実とはそのようなものです。

教会などに対し、”゙らの偽善行為を”?”サすることで正しくなるでしょうか。そんなことはありません。‘嘘’を見つけて指”Eすることが、自分の救いになったり、正”哩サにはなりません。他人の暗闇を”F識するだけではなく、自分自身が暗闇を捨て、光(真実)の中で歩くことを始めなければなりません。神はあなたが文句を言いながらも、神と表面”Iな付き合いのために暗闇にとどまって神の友達のふりをするよりも、あなたが神に対して”ス対の立場に立ち、率直になる方をむしろ好んでいます。

神は正直さを愛し、嘘を憎みます。神はひとつの目をもつ者を愛し、”?心をもつ者を憎みます。神は心からの親愛さを愛し、偽善を憎みます。神は謙遜した行為を好み、プライドの高さを憎みます。神は心からの告”窒?愛し、単なるおべっかを使った、へつらいの行為を憎みます。どうして神の好むことをせずに、わざわざ神の”{りをかって苦しむ必要があるのでしょう。そんなことをして、誰が生き残れるでしょうか。

もしあなたが他の人たちについて正直になって”゙らを”?”サするつもりでしたら、まずは自分自身に対して正直になり、自分自身のあり方を吟味することから始めなくてはなりません。他の人が悪かったり、自分と”艪ラて悪いからといって、あなたのあり方に対する言い訳にはなりません。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイによる福音書 7章3-5節 新改訳)。

これについては、聖書にはっきりと書かれています。罪(つまり、神から”ニ立して自分のやりたいようにすることや、神の法律から”ニ立して法を守らないこと)は、私たちに損害や死、”j壊を与えます。”ス対に、神を喜び受け”?れ、隣人を愛することは、いのちをもたらします。

「どうせ運命だったら、自分に選択肢などないし」と、あなたは不平を言うかもしれません。それはある意味、本”魔ナす。あなたには選択肢はありません。しかし、あなたは神ではないし、神であったこともありません。つまり、あなたは神と議論したり、たたかう立場にはいませんし、神と勝負する”¥力もないのだから、そうすることを考えるだけでも”n鹿を見るだけです。

「ところで、あなたは言うでしょう。“ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか”と。人よ、神に口”嘯ヲするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、“どうしてわたしをこのように造ったのか”と言えるでしょうか。焼き物師は”ッじ”S”yから、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」(ローマの信”kへの手紙 9章19-21節 新改訳)。

神は自分の創ったものを、神のしたいように扱います。あなたは自分が自分なのだからと創造主を無視したり、または、自分が神を所有するかのように神に対して欠”_を見つけたり、不平を言う権利などありません。そういうものなのです。抵抗したらあなたは滅び、信じて従えば、あなたは”ノ栄します。

“j壊”Iで自己利益を追求する宗教から”ヲげてください。現実”Iになり、自分の小ささを”F識してください。神に従い、神の言うことをすれば、あなたは本物の宗教心、つまり“いのち”を”セます。

私は、神がいのちを与えると決めた人々に、神ではない‘人’のやり方や、”j壊の”ケ、世間の宗教システム、”?体、そして悪魔から救い、神のやり方を教えるために送られました。私は、人々を、”゙ら自身という名の宗教から神の恵みにより救うため、ここにいるのです。

私は、いのちを”セると約束された人々を、間違った福音とニセモノのイエスたちを本物だと教えられた嘘から救うために、ここにいるのです。

私は人々に、唯一の本物の神、父であり救い主である主イエス・キリストについて知らせるためにここにいるのです。主イエス・キリストは、ヤシュア・ハマシィアック(Yashuah HaMashiach:イエス・キリストのヘブライ語での本来の呼び名)であり、私たちのために十字架に架けられて死に、死からよみがえりました。私たちは皆、ひざまずいて”ェを下げ、神がすべての主(しゅ)であることを告”窒キる必要があるのです。これらのことを話すため、私はここにいます。

主(しゅ)の”?は訪れました。神はまばたきをやめました(リ?”ク先は英語のみ)。もう誰も、居心地のよい?”屋のすみっこや、居酒屋や、自分だけの寝室や、隔離された環境や、安全圏や、教会の椅子に隠れることはできません。私は、神の名において、ここに来ました。もしあなたが私と相容れないのでしたら、神に”ス対していることになります。そういうものです。

悔い改めなさい。私の元へ来て学んでください。あなたが知っているすべての宗教と全く違うことに気づくでしょう。あなたが、あなたの存在の領域でのすべてを、神の精密に計算し尽された理解と審”サに”Cせることが求められるでしょう。

言われたことをなんでもむやみに信じる“盲目の信仰”をもつかどうかの話ではありません。あなたはただ、神の前で何をすることが正しいことなのかを知るでしょう。あなたが私に言われたからといって、ただ闇雲に言われたことを信じるのではなく、多くの場合、あなた自身がすでに心の底ではわかっていて、単に私が言葉として口に出すことを与えられ、あなたも神から直接わかることでしょう。神が神自身を近づけ見せる人は皆、神の声をきき、理解するのです。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは”゙らを知っており、”゙らはわたしに従う。わたしは”゙らに永?”の命を与える。”゙らは決して滅びず、だれも”゙らをわたしの手から奪うことはできない」(ヨハネによる福音書 10章27-28節 新改訳)。

私は過去何十”Nかの間に行ってきたこの方法を試してきて、それが真実であるとわかりました。逆に他の方法すべては、たったひとつの真実の”ケによって、間違いであると証明されました。私はこの方法に人生を”qけてきて、それは証明され、今他の人々が私に続くことを呼びかけます。私が行ってきたやり方は神のやり方であり、それが今すべての人に隠されずに提供されています。

それは宗教や“教会”Iクリスチャニティ”のやり方ではなく、現実であり真実のやり方です。それは、ボラ?”ティア活”ョや宗教活”ョなど、よさそうに見える活”ョとは関係なく、神の”ュき(神を喜ばす実)、つまり、信仰によるものです。それは人によるものではなく、神の方法によるものです。それは真実の”ケです。

私のところに来て、私の後についてきてください。そうすることであなたは”K切な”アき、目”I、平和、安らぎ、そして”ノ栄を見つけ、私の話すことが真実であるとわかるでしょう。これは、ひとえに、神の慈”゚によってです。なぜなら、私自身もまた、悪の力と自分の罪から救われた単なるひとりの人間に過ぎないからです。

この警告を心に留めておいて下さい。神を信じる”ケは、決して簡単な”ケにはなりません。事実、とても大変な”ケになることを保障します。あなたのもつものすべてが対価になります。あなたは苦しみ、物事はあなたが期待しているようにはなりません。あなたの世界はすべてがひっくり返したようになります。 聖書に書かれているとおりです。

使”k言行録 17章5-6節 新共”ッ訳

5節 しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴”ョを起こし、町を混乱させ、ヤソ?”の家を襲い、”?人を民衆の前に引き出そうとして捜した。

6節 しかし、”?人が見つからなかったので、ヤソ?”と?”人の兄弟を町の”幕ヌ者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。

7節 ヤソ?”は”゙らをかくまっているのです。”゙らは皇帝の勅令に”wいて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」

8節 これを聞いた群衆と町の”幕ヌ者たちは”ョ揺した。

マタイによる福音書の10章16-42節を”ヌんでみて下さい。はじめる前に対価(神を信じることによる”頼Q)がどれぐらいになるかを考えてみてください。対価をずば”イけた報酬があると、私ははっきりと言うことができますが。真実とはそういうものです。本”魔ノ、もしあなたが主イエス・キリストにあなたのやり方をすべて差し出せば、あなたは失うものがなく、なるべきようにすべてを”セます。

あなたは本”魔ノ神を見つけ、神がすべて誠実で本物であることを知るでしょう。

Victor Hafichuk

?”ィクター・ハフィチャック

翻訳 Mariko Benson
Translated into Japanese by Mariko Benson

>>「“?本語のページへようこそ」のページへ戻る

 

Facebook Comments