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菊田浮海男様、万里子様、イエス・キリストの名において、ご挨拶申し上げます!!
今回の私たちの日本訪問に際し、お二人に再びお会いすることができてとても嬉しかったです。お忙しい中、私たちの気まぐれなスケジュールに合わせていただき、また、お二人のご親切なおもてなしに、大変感謝しています。ありがとうございました。これは、通常世間の人々が使う社交辞令のように、「人生の単調な毎日にちょっとした娯楽が体験できました」とか、「お会いしたことでお互いに幸せな気分になれました」とかいった軽いものではなく、今回菊田さんらにお会いすることは、私たちがスピリット(魂)の中で切望していたことだったからです。
カナダでお二人に約6年近く前にお会いして以来、ウエスト・ラリーのフッタライト・コロニーと菊田さんらが対照的である(菊田さんらにはある程度の“いのち”があり、希望があり、神への本物の信仰の証拠がある)のを見て、キリストにおいて菊田さんらと親交を分かち合うことを願っていました。実際、お二人のことをよく思い出しては、どうしているのだろう、いつかイエス・キリストの元で再会することはないだろうか、と希望をもっていました。
大輪の居間でお話していたときにも申しましたが、今回の日本行きが神によって進められたとき、日本でしたいことの主なことのひとつは、お二人への再会でした。私たちには、なぜそれが必要なのかはよくわかりませんでしたが、神が私たちにそうさせたいのだということには確信がありました。神における私たちの先輩であり師であるビクター(ウエスト・ラリーに私と一緒に来て、会合の間コロニーに対し話していた、彼のことです)は、今回私たちがお二人に会いに行くべきだということを、神から案内されました。お二人にお会いした後、なぜ神が私たちをお二人のところに送ったのかが、明かになってきました。お二人のために、ここで神が私たちに見せたことを、菊田さんご自身が受け入れる慈悲を神がお与えになりますように。
菊田さんが大輪のコロニーを離れ、埼玉に住んでいたときのことについて話していた時、「あの頃は一番神様に近かった」と言ったことが、私たちに強い印象を残しました。それは言葉の綾だよとおっしゃるかもしれませんが、私たちの中には、ではなぜ今は神と近くにいると感じないのだろうという疑問を残しました。事実、私は菊田さんのおっしゃった言葉は事実であり、菊田さんご自身が気づく以上に真実であるように思いました。
もし菊田さんが埼玉に住んでいたときに違いがあったのだとしたら、それは何だったのでしょう。お二人ともがおっしゃったように、それより以前にフッタライト教会によって洗礼を受け、彼らの共同体の一員として生活していたことがあったにもかかわらず、その埼玉に住んでいた当時こそが、お二人が本当の信者(神を信じる者)になった時だったのです。私たちは、そこでの大きな違いとは、当時のお二人が、神との関係において現実性がある中に暮らしていたからであったと信じます。それは単純で、明らかなことでした。神はお二人を切迫した窮地に立たせ、神に助けを求めさせ、お二人に奇跡的に答え、そしてお二人は信じました。それは、宗教や形式とは何の関係もありませんでした。何色の洋服を着るかとか、頭をスカーフで覆うかとか、ひげをはやしているかどうかとも、何の関係もありませんでした。暗唱した祈りの言葉を食事前に唱えることも、“キリスト教徒”としての祝日を祝うこと(実はそれらの祝日とは異教のものなのですが、それについてはまた今度の機会に譲ります)とも関係ありませんでした。実際、お二人がこれを経験したのは、日本のフッタライトの基本教義のように、そして北アメリカのフッタライトの教義でもあるはずの、共同体に参加もしていなかった頃のことでした。菊田さんらがコロニーに戻った後、ただ単にすべてのことに対して、神の必要性に気づき、神の方に向くのではなく、人間の宗教の罠に陥り、神様ではなく宗教や自分の正しさに頼ったのだと思います。菊田さんは神に信頼をおく代わりに、人間に信頼をおいたのです。菊田さんと神の間に宗教が入り込み、菊田さんは道に迷ってしまったのです。
フッタライト教という宗教の偽善的行為や空虚さに気づき、それを口にしつつも、菊田さんはまだそれに縛られています。大輪に伺ったとき、お年寄りの方々が食事の時間、私たち二人のため、正装して「頭にもスカーフをかぶってきたのよ」と言っていたように、少なくとも機会のあるごとに、黒い服を着たり、黒い帽子をかぶったりすることに、“させられている”という強制を感じています。菊田さんらはなぜだか、それらがただの伝統や迷信であり、神の前に何の価値もないことだと知っているのですが、それでもなお義務感を感じているのは、なぜでしょうか。それこそが、私たちが菊田さんたちに解き放たれて自由になって欲しいと願う、“縛り”からきているものです。
菊田さんは、それらの伝統を守ることが、神の御前に罪であることを知りませんか。カナダのフッタライト教における偽善と空虚さに気づくことを神に与えられたのですから、お二人には今、神の前において、それにともなった責任が生じているのです。
「しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカによる福音書 / 12章 48節)
正しいことをしていないということは、つまりはカナダのフッタライトに対し無責任なことをしているということです。もし菊田さんが目にした彼らの偽善と空虚さについて、正直に包み隠さず反対の意思を表明して話したなら、彼らを助けることができるかもしれないのです。それは、人間に対し、神様への菊田さんの責任をとることではないですか。もし菊田さんが真実を知っているのだったら、その真実とともにしっかりと立ち、それを光として輝かすべきではないでしょうか。
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイによる福音書 / 5章 16節)
菊田さんがそれをしないとき、菊田さんは正しい例を見せられるのにもかかわらず見せず、カナダのフッタライトと他のみんなに、与えられる可能性のあるものを与えず、神を「知らない」と言っていることと同じです。あなたがしていることは、実際に、神を含めてみんなに嘘をついていることになるのです。
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイによる福音書 / 10章 32節-39節)
菊田さんから、カナダのフッタライト電話帳に注意書きを付け加えるように頼まれたことについて、菊田さんを助けたい気持ちには変わりはないのですが、注意事項を書くことがその答えではないと考え直しました。もし注釈をつければ、カナダからの深夜の意味のない、または配慮のない電話がこなくなるかもしれませんが、そもそも、なぜその電話帳の中に菊田さんの連絡先を残しておきたいのでしょう。そこから菊田さんたちの連絡先をはずして欲しいといわないのはなぜですか。もし菊田さんが正直にこのことについて考えてみると、何が菊田さんと神との関係を離れたものにしているか、菊田さんの人生で一体何が問題なのかということが、浮き彫りになってくると思います。
フッタライト教会やそれにまつわるしきたりなどとのつながりを断ち切らない理由のひとつは、大輪のメンバーへの責任感からきているものではないかと、私たちは考えます。彼らのお世話をするために、みんなを一緒にしておき、“安定感”をもつことが求められていると考えているのではないですか。もし菊田さんらが彼らのリーダーなのだとしたら、たとえば彼らを間違った宗教へと導かずに、束縛から自由にするという責任はどうでしょう。もし彼らがそれに賛成しないのでしたら、そのときには菊田さんがメンバーに対してできることは何もありませんが、しかし菊田さんには、彼らに対して菊田さんが正しい道だと知っている方向へ導くという、リーダーとしての、神への責任があります。
菊田さんはかつて、大輪のコロニーを離れ、埼玉に引っ越したとき、本物の信仰と自由というものを経験しました。菊田さんは今再び、「肉」の中に生きるという「死」とのつながりを切る必要があるのです。私が言っているのは、菊田さんが埼玉にいたときに神様が奇跡的に必要なものを提供してくれたということに限って言っているのではなく、それ以上のことです。信じる心とともに歩むということは、物理的に必要なものを、神様から供給してもらうために神に従ったり、神を探したりすることだけにとどまらず、もっとそれ以上のことです。実際、菊田さんは、神様がたとえ菊田さんに提供しないときにさえも、従う必要があるのです。これがアブラハムがイサクにしたことであり、エステルが「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」(エステル記4:16)と言ったときにしたことであり、モーセとアロンがファラオのところに行く前にしたことです。これはみんな、神に向かう自由への道をイエス・キリスト自身が究極のたとえとして実演してみせたように、私たちが自分のいのちを捨て、自分の十字架を負うかどうかという問題です。私たちは、神と私たち自身とに、同時に仕えることはできないのです。
「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」 (ルカによる福音書/16章13節)
神様は私たち自身や私たちの自由な意志を守りたいのではなく、むしろそれを十字架を通して殺したいのです。それによって私たちは本当に自由になれるのです。
浮海男さんと万里子さん、これが私たちの神との歩みを定義づけるものです。私たちは、信じて、従って、私たちと神との間に立つすべてを捨てる必要があります。菊田さんは、宗教と心地のよい安定という鎖から離れる必要があるのです。神に従うということは、心地のよいところに身を置くことではなく、宿営の外に出て神と立つことにより本物の命を得ることです(「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」ヘブライ人への手紙13章13節)。あなたが癌だとして、ベッドが心地よくて、鎮痛剤が効いているからといって、その場しのぎの緩和病棟に居残ることはできないのです。その癌を根絶するために、行動に移すべきなのです。癌を生じさせる原因となっているものを食べることや、それに近寄ることを止めて、健康な生き方を新たに始める必要があるのです。
あなたは霊的に死にかけています。今行動を起こさないと、あなたは完全に死んでしまいます。私たちは、神の慈悲と案内により、菊田さんを今いる状態から救って助けたいのです。菊田さんに、キリストとの完全な交じり合いを持てるようになって欲しいのです。もし菊田さんが今のまま、伝統や宗教の快適さの中にとどまり、しがみつき続ける限り、それはできません。あなたが今していることは、聖書でいうところの「淫行」です。それについて、聖書ではなんと言っているでしょう。下記のとおりです。
「不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」(コリント人への第一の手紙 6章18節)
「また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。」 (コリント人への第一の手紙 10章8-9節)
神が菊田さんに、信じて従わせる慈悲をお与えになりますように。
マーク・万里子 ベンソン
次の手紙は、前述のビクター(神の内で私たちの父であり師である)によって書かれたものです。彼が、ウエスト・ラリーコロニーのペンテコステ(五旬祭)で私が通訳を頼まれた際に、同伴した者です。ビクターからも、菊田さんに向けて、神からの言葉として伝えたいことがあるので、送ります。
菊田浮海男様、万里子様、イエス・キリストの名において、ご挨拶申し上げます。
私は、ビクター・ハフィチャックと申します。マーク・万里子 ベンソンのイエス・キリストの内なる兄弟です。私はお二人に、何年か前、カナダのアルバータ州、ウエスト・ラリーコロニーにてお会いし、お会いできたことに感謝しています。また、マークと万里子が今回、日本でお二人にお会いしたときのことを聞き、それにも感謝しています。
私がこの手紙を書いている理由は、菊田さんが、人間の教えと神の真実との矛盾にある程度気づいていることにより、混乱し、傷ついているということをマークから聞いたからです。
あなたはもっと何かを神から欲しているのにもかかわらず、自分のいる状況から抜け出せられない罠にかかっています。なぜだかお教えしましょう。あなたは、神、イエス・キリストの意志の、間違った、ニセモノにだまされているからです。菊田さんがしなければならないことは、次の通りです。
「それから、イエスは弟子たちに言われた。“だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」 (マタイによる福音書 16章24-26節)
あなたは、両方の世界にしがみつくことはできないのです。イエスは、それをとても明確にしています。どちらか一方のみで、両方はあり得ません。
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイによる福音書 6章24-34節)
もしあなたが神の国を選ぶなら、あなたは人の国を捨てなければなりません。それはつまり、菊田さんが今いる、人の名(フッター)でつくられた国のことです。そうです、浮海男さん。マークから、菊田さんはフッターという名前なんてどうでもいい、肩書きやレッテルなどは些細なことにすぎないとおっしゃっていたと聞きました。あなたは、そういいつつも、それと同じ団体の習慣や伝統に縛られているのです。それについてイエス・キリストが言っていることは、以下の通りです。
「イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」 また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」(マルコによる福音書 7章6-9節)
(あなたは彼らと同一の伝統を守っていないのかもしれませんが、衣服の規定やそのほかの多くのことをもっています。)
イエス・キリストが約束しているのは、これです。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」(ヨハネによる福音書 14章21節)
これが本当であるということを、私たちは証言できます。それは、私たちが聖書や神が述べた言葉を信じるからだけではなく、神は神の言葉にこれまでも忠実であり、私たちはその忠実さを経験してきたからです。
自分自身に問いかけてみてください、神は信頼のおける存在ですか。
自分自身に問いかけてみてください、私(浮海男、万里子)はそれを信じていますか。
自分自身に問いかけてみてください、神に従うことは正しいことですか。
自分自身に問いかけてみてください、もし私がいのちを欲しかったら、私には選択肢がありますか。
自分自身に問いかけてみてください、もし私たちが神に従ったら、私たちは死にますか。
自分自身に問いかけてみてください、もし死ぬことが神の意志だったら、私に心構えはできていますか。
あなたは、ご自分の年齢について気にかけていたそうですね。
自分自身に問いかけてみてください、神は、神に従う誰でもに対し、信頼のおけない存在ですか。
年をとることについてはどうでしょう。ダビデは、次のように言いました。
「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。悪を離れて善を行ない、いつまでも住みつくようにせよ。まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、悪者どもの子孫は断ち切られる。」(詩篇 37章25-28節)
私たちは、菊田さんとカナダでお会いしたとき、お二人の中にいのちと希望を見ました。その後お二人とそれ以上関わることがなかったので、あなたの心が 神を習い、私たちとの親睦が深まるという気持ちになることを祈りつつも、そうならなかったことに悲しく思っていました。これまでの何年もの間、私たちは主があなた方の道を開いてくれることを祈り続けていました(マークは、あなたたちが本物の“信じる者”であると信じています)。
あなたがたとえどんな対価を払うことになっても、過去にしがみつくことはできません。手放してください。神を信じて。次の通りに、神は、忠実な方です。
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイによる福音書 6章19-34節)
あなたは、あなたの魂をもって、誰に信頼を置くのでしょう、物理的なものを提供するフッタイライトにですか、それとも無限に、より重要な-いのち-そのものを与えるイエス・キリストにですか。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(マタイによる福音書 10章28-31節)
イエス・キリストを“人の前で認める者”になるという意味は、伝統や宗教活動ではなく、自分の十字架を負い、神について行くことです。 次に書いてある通りです。
「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。」 (マタイによる福音書 10章32-35節)
もし神に従うなら、あなたは人に反対され、憎まれることになることをイエス・キリストは約束しています。
「さらに、家族の者がその人の敵となります。」(マタイによる福音書 10章36節)
これが意味するのは、すべての「家族の者」、つまり「フッターの家」も含まれています。私は本当に、フッター自身も、人々が彼の名を使って今日していることをよく思うとは思えないのです。
フッタライトのやり方は、多くの点で神と矛盾しています。あなたはそのやり方で歩いてきて、その報いをそれに応じて受けているのです。「良」と「悪」を混ぜ、神を喜ばせることはできません。神は何よりも混ざり物を憎んでいます。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。 (ヨハネの黙示録 3章15-19節)
(何年も前に私たちが送った長い手紙を受け取りましたか?)
イエス・キリストに従い、生きるための慈悲を菊田さんが見つけますように。そうでなければ、あなたの神との隔たりの中で、あなたは(霊的に)死ぬまで、しおれていくでしょう。神はあなたのために、もっとよい計画をもっています。
菊田さんが、今いる罠から抜け出し、神を従うことによりあなた自身が救われ、聞き、信じるよう祈ります。そうなれば、どんなに素晴らしいことでしょう!
ビクター
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